日本キリスト教団 茨木教会

ともしび 2023年9月3日 振起日号

「ヘンデルのメサイアを味わう ~預言~」



 ドイツの作曲家ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルによるオラトリオ『メサイア(救世主)』は、今も全国各地で歌われています。私もその一人で、出会いは高校で毎年行われていたハレルヤコーラスでした。東京神学大学では毎年メサイア音楽礼拝をささげていたので、卒業後もOBとして参加したことを含めると、10年以上メサイアを味わってきたことになります。今回は、メサイアで歌われている御言葉の恵みをお分かちしたいと思います。
 メサイアは、第一部「預言・降誕」、第二部「受苦」、第三部「復活・永生」から構成されており、ほぼ全体が聖書の御言葉から引用された歌詞となっています。つまり、神様の御前にあって何一つ誇張も偽りもない真実であるということです。そこが、私がこの曲を好きな理由でもあります。実際の譜面の最終ページには、「1741年9月6日」と記されています。282年前の今頃、オルガニストでもあったヘンデルが採譜の作業を行っていたということでしょう。
 序曲の後に歌われる三つの曲“Comfort ye my people”(慰めよ、我が民を)“Every valley shall be exalted”(全ての谷は高く上げられ)“And the glory of the Lord shall be revealed”(こうして主の御栄光が現されるであろう)は、
 イザヤ書40章1~5節から引用されています。


「『慰めよ、慰めよ、私の民を』と、あなたがたの神は言われる。『エルサレムに優しく語りかけ/これに呼びかけよ。その苦役の時は満ち/その過ちは償われた。そのすべての罪に倍するものを/主の手から受けた』と。呼びかける声がする。『荒れ野に主の道を備えよ。私たちの神のために/荒れ地に大路をまっすぐに通せ。谷はすべて高くされ、山と丘はみな低くなり/起伏のある地は平らに、険しい地は平地となれ。こうして主の栄光が現れ/すべての肉なる者は共に見る。主の口が語られたのである。』
イザヤ書40章1~5節 協会共同訳

 39章までは、イスラエル民族のバビロン捕囚が預言されていました。イスラエルの民は、神の民でありながら偶像崇拝を行っていたために、紀元前587~538年にバビロンへ連れ去られて、苦役を強いられることになるのです。さらに、心の拠り所であった故郷エルサレムの神殿が陥落したという知らせを聞き、絶望するのです。
 しかし、苦役と絶望で終わってしまうわけではありません。40章2節において「エルサレムに優しく語りかけ/これに呼びかけよ。その苦役の時は満ち/その過ちは償われた。そのすべての罪に倍するものを/主の手から受けた」と語られているように、罪に対する裁きの後には赦しがあり、苦役からの解放があることも預言されていたのです。
 スコットランド出身の牧師であり神学者であったジョン・ソーヤー先生は、この箇所について「罪の真ん中に赦しがあり、砂漠の中に希望があるということを、予告している。」と言及しておられます。神様に背き続けたイスラエルの民ですが、それでも赦されて再び神の民とさせられたという出来事は、私たちにも希望があることを教えてくれます。一度神様と契約を結んだならば、永遠に神の民であるのと同じように、私たちも一度洗礼を受けたならば、永遠に神様のものなのです。また、イスラエルの民がそうであったように、私たちも何一つ試練のない人生などなく、荒れ地を行くような、砂漠を行くような苦役の時を経験することもありますが、その先には必ず希望が約束されているのです。キリスト者は、新しい神の民だからです。それこそが私たちにとって一番の慰めなのです。
 イザヤ書40章3節以下は、複数の福音書において引用されています。
「ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの言葉の書に書いてあるとおりである。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を備えよ/その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ/山と丘はみな低くされる。
 曲がった道はまっすぐに/でこぼこの道は平らになり/人は皆、神の救いを見る。』』
ルカによる福音書3章3~6節 協会共同訳


 洗礼者ヨハネこそが、イザヤの預言の成就「主の道を備える者」でありました。ヨハネは、人々に洗礼を授けながらも救い主(メシア)イエス・キリストを予告します。そして、主イエスご自身もヨハネから洗礼を授けられたのでした。 メサイア5曲目の“Thus saith the Lord”(主はこう言われる)は、ハガイ書2章6~7節から引用されており、6曲目の“But who may abide the day of His coming?(だが、彼が来る日に誰が立っていられようか?)、7曲目の“And He shall purify the sons of Levi”(彼はレビの子らを清められる)は、マラキ書3章1~3節から引用されています。
「万軍の主はこう言われる。間もなく、もう一度/私は天と地、海と陸地を揺り動かす。諸国民をすべて揺り動かし/諸国民のあらゆる財宝をもたらし/この神殿を栄光で満たす――万軍の主は言われる。」
ハガイ書2章6~7節 協会共同訳
「私は使者を遣わす。彼は私の目に道を整える。あなたがたが求めている主は/突然、その神殿に来られる。あなたがたが喜びとしている契約の使者が/まさに来ようとしている――万軍の主は言われる。だが、彼が来る日に誰が耐えられようか。彼の現れるとき、誰が立っていられようか。彼は精錬する者の火、洗い落とす者の灰汁のようだ。銀を精錬し、清める者として座り/レビの子らを清め/彼らが金や銀のように純化する。こうして彼らは/主に供え物を正しく献げる者となる。」
マラキ書3章1~3節 協会共同訳


 紀元前538年、バビロンがペルシアに破れたことによってイスラエル民族は解放されました。民はエルサレムに帰還し、神殿の再建を始めました。ところが建設作業は思うように進まない上、かつてのソロモン王の神殿には劣るものでした。預言者ハガイは、民が神様への信仰に立ち戻り、再び神殿を手に入れるために発破をかけました。それは、神様がこの神殿を栄光で満たしてくださる!と信じたからでした。
 預言者マラキもまた、神殿について語っています。神殿再建が思うように進まないのは、民が神殿のために献金して礼拝を再開することよりも、自分たちの生活のことを優先しようと躍起になっていたからでした。特に、祭司の家系であったレビ族たちが私腹を肥やしていたことが問題となりました。彼らは皆、神様が神殿において臨在なさることを忘れていたのです。そこでマラキは預言しました。主は神殿に、突然、御臨在なさるのだ!と。
 主なる神様は生きておられ、神殿の完成を待っておられるのだから、直ちに復興を目指さなくてはならないのだと思い起こさせます。こうして第二神殿が建てられていったのです。
 もう一つ、重要なことが預言されています。「私は使者を遣わす。彼は私の目に道を整える。あなたがたが求めている主は/突然、その神殿に来られる。」とは、実は洗礼者ヨハネと主イエスのことであり、「主の供え物を正しく献げる者となる。」とは、主イエスが十字架におかかりになって、罪の犠牲として献げられるということです。この預言は遠い昔の、旧約聖書の時代のことでとどまらず、今まさしく私たちの上にも宣言されていることに気がつきたいのです。主なる神様のご臨在と、終わりの日にキリストが再臨なさることを信じて、生き生きと礼拝をお献げしたいのです。
 茨木教会へ着任して5ヶ月が経ちました。この期間、何度も私たちの家族や友人が礼拝に出席する機会がありましたが、必ずと言って良いほど、「立派な会堂だ!」と驚かれます。長男の保護者として、めぐみ幼稚園の行事や礼拝に参加することもあるのですが、他の保護者の方々も初めて会堂に入った時には圧倒されていました。礼拝に適した広く高いこの会堂が、祈りと献金のお支えによって建てられたことを、神様が喜んでおられると信じます。これからも、与えられたこの会堂を大切に用いつつ、主イエスが私たちのお献げする礼拝の中心にいてくださることを祈り願っています。
 今回は、ヘンデルのメサイアより預言の御言葉を聴いて参りました。なぜ、天より救い主イエス・キリストが遣わされたのか?その真意がここに表れておりました。すなわち、神の民イスラエルは偶像崇拝をして神様に背き続け、裁きを受けました。罪の償いをして故郷に帰りますが、未だ神様に立ち返ることが出来ませんでした。そのような罪深い民でしたが、神様はこの人々を愛し、憐れんでくださいました。そこでついに、救い主をおくってくださるのです。・・・私たちには、すでに救い主が与えられています。感謝して、救い主イエス・キリストを、私たちの心にお迎えしましょう。
「東京神学大学コーラス部主催・メサイア音楽礼拝の様子」