日本キリスト教団 茨木教会

ともしび 2023年4月9日 イースター号

「わたしにつながっていなさい」

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
ヨハネ15:5 協会共同訳
 2021年に、前任地の浜北教会において、高齢の教会員三名が二か月の間で立て続けに逝去する、ということがありました。いずれも長老や教会学校校長などを務め、長く教会生活を送った方々でした。そのうちの二人はご夫婦です。浜北教会は元々、初代牧師が農村伝道を志して始まった教会であり、その方々も浜北で農地を開拓して戦後の歩みをキリスト者として生き抜かれた、そんなお二人でした。本当に、夫妻で一方の後を追うようにすぐに続けて亡くなってしまわれたので、ご家族や教会の仲間たちのショックは大きいものでした。葬儀が終わって、娘さんが「先生に見せたいものがある」と言って畑に案内してくれました。亡くなられたご夫婦が無農薬の野菜を栽培していた畑です。雑草が生い茂るところでしたが、大きな葉っぱに隠れて、ぶどうが生っていたのです。広い畑にポツンと、一つのぶどうの木。そしてそこに、小さな、しかしれっきとしたぶどうの実。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(5節)
 その方々の愛唱聖句がこの御言葉でした。ぶどうを栽培していた、ということは聞いたことがありません。畑はほとんど荒れ地でしたが、最後に残ったのがぶどうの実であったのです。
 礼拝生活を晩年まで守ることが許された信仰の歩みでした。しかし、厳しい面会規制がある中、臨終の祈りはビデオ電話、という形を取らざるを得ませんでした。それでも、神さまにとらえられ、主イエスにつながって、豊かな信仰が実っていることを深く覚えることができました。
 浜北教会は、2018年に教会墓地を新しく建てました。墓碑に刻む御言葉をどうするか、長老会で祈り求めた結果、ヨハネによる福音書15章の御言葉が与えられました。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」(4節)
 3月、茨木教会の礼拝では、田辺由紀夫先生と田中真先生が大阪を離れられる前に、毎主日力強く御言葉の説き明かしをなさいました。田辺先生の最後から数えて二番目に取り次がれた御言葉も、ヨハネによる福音書15章からでした。わたしにつながっていなさい―。
 「つながる」という翻訳は良い言葉だと思います。主イエスにつながる。手を繋ぐ。身も心も密着する。具体的なイメージに発展していきます。原文では「中に」「内側に」という意味の言葉が使われています。英文だとニュアンスが同じようになるのでしょうか。文語訳も一度聴くと忘れがたい表現になっています。
 主イエスが私たちに語りかけてくださるのです。わたしのうちに、わたしの中にとどまっていなさい。わたしもあなたと共にいる。あなたとピッタリそばにいる。
 この言葉の後には、厳しくも思える言葉が続きます。「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」(5節)。「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(6節)。これを、脅しの言葉として受け取るか。それとも、それほど真剣に、愛をもって、わたしにつながってほしい、わたしのうちにだけいてほしい、と語りかけておられる、そう受け取るか。
 このようにお語りくださる主イエスは、この個所の少し前のところで、こうもお語りになっていました。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」
ヨハネ11:25 協会共同訳
 ラザロを甦らせられた時のお言葉です。主イエスが「わたしのうちに」「わたしの中に」とおっしゃる時に、それは神の命の中に、永遠の命のうちに入れられる、ということを意味しているのであり、復活の主イエスの恵みにつながっていなさい、ということになるのではないか。それに招かれているのは私たち、この体と心。決して観念的なものではなく、具体的で実際的な喜びがここにあります。
 先にご紹介したご夫人の方が、いつもこんなことを言っておられたそうです。「イエスさまにつながっていれば大丈夫。教会につながっていれば大丈夫」。娘さん曰く、口癖のように聞かされて、そこまで気に留めていなかったけれども、今はその言葉をかみしめている、とのことでした。
 生活のことや自分の周りの人間関係のことで苦しいことがあっても、「イエスさまにつながっていれば大丈夫。教会につながっていれば大丈夫」。
 教会につながっていれば大丈夫。主イエスの言葉がここまで広がって、そしてより具体的なイメージとなって、本当に豊かな実を結んでいるかのようです。私たちはそれぞれに導かれて、教会の礼拝へと足を運びました。そして今は、茨木教会につながっています。時々に、離れることもあります。一ヶ月の間で、数年の間、もしくは一週の間で。私たちの意志で、神さまに対してピッタリ離れることなくつながり続ける、ということは不可能です。いつまでも成長しないように思えてくることもあります。それでも、私たちをお選びくださったのは主イエスであり、その主イエスがわたしがあなたの中にとどまっている、と約束してくださった。洗礼を受けて教会員である、礼拝に集って教会につながっている、このことこそが私たちの歩みを確かにし、豊かである、と言い得る根拠となることです。
 それは、主イエスの命令であり、祈りであり、断言です。つながっていなさい、つながっていてほしい、つながっているのだ―。福音書記者ヨハネはこの言葉を語り、主イエスはそのまま十字架に向かわれていった、と描きます。「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められ」(ヨハネの手紙一1章7節)る出来事が起き、そして、甦りの日曜日を迎えます。
 主イエスにつながっていれば大丈夫。キリストの体である教会につながっていれば大丈夫。ここで何度も再スタートが切れる。繰り返し悔い改め、甦りの光の中で信仰の歩みを整え直す。そのように主イエスからいただく福音の喜びを、信仰の先輩たち、仲間たちと確かめ合いつつ、新年度の礼拝生活へと向かいたいと思います。