日本キリスト教団 茨木教会

ともしび 2022年12月4日 クリスマス号

「めぐみ の クリスマス」

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネ3:16 協会共同訳
 当教会の附属めぐみ幼稚園では、毎年クリスマスには「クリスマス・ページェント-イエスさまのおたんじょう」を行っています。以前は二日に分け、年長クラスのクリスマスで行っていましたが、昨年からは全学年みんなで一緒に上演するようになりました。
 私は、このページェントの最後の場面が来ると、いつもウルウルしてしまいます。美しいピアノ曲をバックに、飼い葉桶のイエスさまに向かって、先ず東の国からはるばるやって来た博士たちがうやうやしく宝物をお献げし、拝(おが)みます。それに続いて、羊飼いや天使など登場人物がつぎつぎ拝んでいきます。そして、なんと、ヘロデ大王とその家来たち・ローマ兵たちまでもがイエスさまの前にひざを折って拝んでいきます。
 ヘロデ王やローマ兵が主イエスを拝む(礼拝する)などということは、聖書に一切書いていないことです。それどころかヘロデは、博士たちからその子が「ユダヤ人の王としてお生まれになった」と聞いて恐れ、自己保身のため、その辺り一帯の二歳以下の男子を皆殺しにせよと命令します。歴史上実際のヘロデ王は、最高権力者であり続けるため、恐ろしいほどの猜疑心から、自分の妻の弟・母、叔父、自分の三人の息子、そして最愛の妻までも殺してしまいます。そんな男がイエスさまの前にひざまずいて拝むなんて決してありえません!なのに、なのに、一体どうして?
 聖書の中にこんな言葉があります。

狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ
その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。
イザヤ11:6-8 協会共同訳
 これはまったくもってありえない光景です。どうして狼・小羊・ヒョウ・子ヤギ・子牛・ライオン・熊・毒蛇・マムシと赤ちゃんが一緒にいられるのでしょう。この世の中では絶対にありえない世界です。ですが聖書は、メシア(救世主)が、平和の王がお出でくださることによって、こうした幻(ビジョン)を見ることができる、と預言しているのです。
 ですから、めぐみ幼稚園のクリスマス・ページェントは、平和の王であるイエスさまがお出でくださったことによって、まさにその究極的な平和のビジョンを視ることができるんですよ、とあの子供たちが体現していることになるのです!それを思うと私の心は震え、涙腺がゆるんでしまいます。

 ところで、このページェントの最後の最後に、子供たちが一斉に声を合わせて聖書の言葉を告げます。表紙の絵がちょうどその場面になります。それが冒頭に掲げていた「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」というヨハネ福音書3:16のみ言葉です。このけっこう長い聖書の言葉を、年長・年中の子供たちはもちろんのこと、年少の幼い子らもたどたどしい口ながら一生懸命唱和するんですよ!そのなんと愛らしいことか!
 このみ言葉は、実はしばしば「小聖書」と呼ばれています。それは、この一句に全聖書が伝えたいことがギューッと凝縮され要約されている、という意味からです。ということは……めぐみ幼稚園の子供たちがこの一句を暗唱しているということは……あのちっちゃな体の中に「小聖書」を宿しながら生き始めている、ということになるでしょう……それってすごいじゃないですか?!
 また「聖書」は、イエスさまが眠る飼い葉桶のようなものだ、とも言われています。ということは……子供たちは、あのちっちゃな心にイエスさまを宿しながら生き始めている、ということでもあるでしょう。なにかふしぎな感動が湧き上がってきます。

 ここで改めて、「小聖書」と呼ばれるこの一句に注目したいと思います。
 先ず、「神は、……世を愛された」とあります。「世」とは私たちが今生きているこの世界です。神は、この世界を愛してくださった、愛を貫き、成し遂げてくださった、というのです。
 しかし、これは不思議な、変な言葉ではないでしょうか。なぜなら、私たちが何かを愛する場合は、それが物であっても人であっても、自分にとってとても価値があるからでしょう。例えば、私が花を愛するのは、花が美しく、花によって心が癒やされたりするからでしょう。○○さんを愛する、ということは、その相手が自分にとってとても魅力的で心が引かれるからでしょう。逆に、醜い、汚い、役に立たない、自分にとって値打ちのないものは愛そうとは思いませんし、愛せません。ならば、神が愛してくださった「世」は、神さまに愛されて当然の価値があると言えるのでしょうか。
 ロシアによるウクライナ侵攻が今年2月末に始まり、陰惨な戦いがまだまだ続き、終息の目途が立っていません。おびただしい血が流され続けています。(対岸の火事ように傍観してしまっている自分に愕然とします。もしもこの大阪であのようなことが起こっていたなら……怒りと恐怖で血が逆流します。)その他の様々な地域でも激しい対立があり平和が踏みにじられています。独裁的な力によって圧迫されている人々がいます。巨大な消費社会の中で悦楽にふける人々がいる一方、貧困にあえぐ多くの国々が現実にあり、いや富める国の中にも飢え渇く人々がいます。欲望が渦巻く弱肉強食の世です。そんな世であるということは、主なる神の目から見て価値あるなんてとても言えない、あのノアの箱舟の時のように、全部を終わりにされ滅ぼされても仕方がない状態が今も続いています。
 しかし主なる神は、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように、生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」(創世記8:21)と言われ、「悪い」この世は今も存続し続けているのです。この私も。私たちも。
 ヨハネ福音書1:11に「言(主イエス)は、自分の民のところ(世)へ来たが、民は受け入れなかった」のでした。受け入れない世にも関わらず、「神は……世を愛された」!とは一体どういうことでしょう?一体どうしてですか?「幼いときから悪い」、価値などまるで見当たらない私たちのこの世を、一体どうして愛することができるのでしょう?!
 私たちだって、自分を受け入れない相手を愛することがどれだけ大変なことか、少しは分かります。例えば、親が子供を愛するのは当たり前でしょうと言われたりしますが、その子が親の意に反する言葉や態度をまき散らすようになったら、とても穏やかではいられません。「あの子がもっとこうだったら可愛いのに。大事にしてあげられるのに。応援してあげるのに…」といった思いが全く通じなくなったら、その自分の感情を乗り越え、それでもその子を愛するにはものすごいエネルギーが必要です。それで私たちはすぐに嫌気がさして、愛することを諦めてしまいます。

 しかし、主なる神さまは違いました!諦めません。滅びてほしくないからです。そこからなんとか救い出したいからです。「永遠の命」を与えたいからです。「永遠の命」って?いつまでも生き続け不老不死を手に入れることではありません。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:3)と聖書に書いてあります。要は、神さまと、主イエス・キリストと共に永遠に生きられる、神の愛の中に生き続けられるようにしてあげたい、ということです、独り滅びて消え去ってしまうのではなくて。
 そのためには、神を受け入れない心を何としても変えなければならない。そのために、神さまはものすごいエネルギーを注ぎ尽くされたのです。それが、「神は、その独り子をお与えになった」というクリスマスの出来事です。神さまは、ご自分の大切な子、独り子を手放し、犠牲にして、あのロケットを宇宙に飛ばすよりも何万倍もの犠牲のエネルギーを使って、世に送ってくださったのです、私たちの心を変えるためにです。
 またイエスさまご自身も、私たちの心を変えるために、ご自分の愛のエネルギーを全部注ぎ尽くされ十字架に架かりました。だから十字架上で、「渇く」と言われたのです。それらは、私たちが神を知り、神を信じ、神の方へと立ち帰るためです。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」です。  「めぐみ」とは、私たちが自分の知恵や力によってはとてもできない、ありえない、途方もない、驚くべきことだから、「めぐみ」です。  アメイジング・グレイス(amazing grace驚くべきめぐみ)、それこそがクリスマスの本質です。