日本キリスト教団 茨木教会

ともしび 2022年9月4日 振起日号

「人生を変える出会いが!」

それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
マルコ7:31-37 協会共同訳
 この絵はシャガールの『緑色のユダヤ人』という初期の作品です。上記の聖書の物語を何度も読んでいくうちに、「イエスさまの所に連れて来られた人って、も・し・か・し・て・こんな人ではないかなぁ」……と、ついにこの絵に思い至った次第です。
 深く刻まれた顔の皺(しわ)と下を向いた虚(うつ)ろな目、シャガール特有の色彩感覚による緑色の肌と黄色い髭、それらがえも言われぬ彼の孤独感、何年も何十年も負ってきたかのような彼の疲労感を醸(かも)し出している絵だと思います。
 そしてこの聖書に登場する人もきっとそのような重苦しいものを抱えていたのだと思うのです。彼は耳が聞こえず、それで話すことも不自由な人でした。お互いの気持ちや考えを伝え合い、分かち合うべき「言葉」を自由に使えない、そういう状態の中に何年も何十年も置かれてきた人でした。きっと家族は彼のそうした状態を見るにつけ、やっぱり辛い、何とかしてあげたい、そういう切実な思いをもってイエス様のもとに彼を連れて来て、癒しを、それがだめでもせめて手を置いて祝福して欲しいと願ったのでしょう。
 教会の年配の方、その方は耳が遠く補聴器をつけても満足に聞えない状態でしたが、ある時私にしみじみ語ってくれました、「耳が聞こえないというのは本当に淋しい。一対一で話す時はまだましだけれども、特にみんなでおしゃべりして笑い合っている時、どんなことでみんなが笑っているのか分からず、一緒に笑えなくて、一番淋しい」と。ホントにそうだと思います。
 ただ、この聖書に出てくる人の悩みは、なにもお年寄や障害を持っている人だけの問題ではないと思います。いくら健康な耳や口を持っていても、互いの声を聞こうとしなければ、心の耳が閉じ、言葉が失われてしまった世界となってしまいます。心を通わせ笑い合えない世界…それは私たちの社会を覆う根本問題と言ってもいい深刻な問題だと思います。
 もう何十年も前のことですが、教会に来ていた高校生が私に言った話が忘れられません。
「先生聞いてくれよ。この間バス遠足があったんだけどー、バスに乗ったとたんみんなバッグからウォークマンを取って聞き出しちゃってさ、バスガイドの話誰もみんな聞かねーの。誰もみんな話ししねーの。バスの中、シーン。シーン。これって変でしょ、先生!」
 「で、君はどーした?」「オレ?仕方ねえからオレもイヤホン着けたよ」「フーンそっかー」
 高校生特有の含羞(がんしゅう)があるにせよ、バス遠足の最中(さなか)、みんながみんな耳栓をして独りの世界に入り、車内が静まりかえっている図を想像して、考えさせられました。心の耳を閉じ互いの言葉を聞かない世界、そして互いの言葉が失われていく世界…。それは極めて現代的な問題のような気もしますが、聖書は、それが人類の根本問題であることを太古の昔から実は教えていました。
 創世記11章にこんな話があります。


世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。
創世記11:1-9 協会共同訳
 バベルの塔とは、これらブリューゲルの絵で有名ですが、人間たちが「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」-としたことに対し、主なる神は、このまま人間を野放しにしておくと手が着けられなくなるから、彼らの言葉を混乱させ、意思疎通できなくさせて阻止した、という話の筋になっています。
 しかしこの物語は、そもそもなぜ人間世界には言葉が幾つもありバラバラなのか、という問いへの答えとして生まれた原因譚とみることができます。こういうことです。主なる神は、本来人間を同じ言葉によって心を通わせ共に生きるようにお造りくださった。しかし人の本性には、「天まで届く塔」を作ろうと願うほど、神の領域にまで達したい不遜な欲望、罪がある。そして神抜きで、自分たちが神のように思い通りに生きようとする、自己神化・自己中心・自己絶対化が起こる。その不遜な欲望がぶつかり合えば、もうお互いの話は聞かないし聞けなくなる。自分の我を通したい、自分の世界を誰にも邪魔されたくない、そう思ったら、誰が人の話など聞くものか。結果、言葉が通じ合わないバベルの現実が生じた、それが人間の根本問題としてあるのだと創世記は教えているのです。
 私たちは愛を求めます。愛し愛され、信頼し信頼され、あたたかな言葉通う世界を求めています。しかしその一方で、あの「緑色のユダヤ人」のような重苦しいバベルの現実も抱えています。
 ああ、どうしたらいいのでしょう?!

 「そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」
 イエス様は、彼と二人きりになられたのです。「私とあなた」「あなたと私」という、誰にも邪魔されない最も親密な関係を、イエス様の方から造り出してくださったのです。かけがえのない相手として「私」という存在を認め、真正面から愛してくださる行動です。私たちが元気をなくしたりふて腐れたりする根っこに、「私」を「私」としてちゃんと認めてもらえていないことがあるのでは?しかしイエス様が身をもって示す愛は、ひとりに注がれ、ひとりに傾く愛です。あのザアカイにしても長血の女性にしても中風の男にしても、みんなその人その人に相応しい救いの道を開いてくださいます。ですから、主イエスの愛とは、相手は誰だろうと構わないバーゲンセール的「愛」ではなく、私なら私を良く知って合わせてくれる特別注文・セルフオーダーの愛だと言えるでしょう。
 今この同じ一つの文書を読んでも、それぞれ色々な受け止め方があると思います。それは皆それぞれ生きている現実が違うからです。主なる神は、こうした文書も用いつつ、一人一人をご自分の前に立たせ、親密で濃密な交わりを造ってくださるのです。何故か?!それは主なる神にとって私たち一人一人が無くてはならぬ存在だからです。失われてはならない存在だからです。他の誰が何と言おうと「あなたを愛す」、そう向き合ってくださるのが、神の愛なのです。そして私たちは、一人、一人、神のみ前に立つのです。
 イエス様は、彼を連れ出し二人きりになって、そして「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」。…これは何とも不思議な仕草です。私たちの知恵では分からないことです。しかしハッキリしていることは、イエス様が直接触られた耳も舌も、この人自身が恐らく何年も何十年も背負っていた重荷以外の何ものでもない、ということです。自分の力ではどうすることも出来ないでいた弱点、避けることも変えることも出来ないでいた苦悩の現実です。その一番の急所の急所に主イエス・キリストの愛は触れるのです。向かっていくのです。
 本当にそうだと私はつくづく思います。主イエス・キリストが与えてくださる救いとは、福音とは、手軽な気休めでは決してない。むしろ主イエスの福音は、大胆なまでに病んでいる患部、罪の病巣、問題の根本に触れていきます。命を投げ出すまでの熱い愛のみ手をもってです。このことは、キリストと出会えば必ず分かります!
 「そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である」
 主イエスが天を仰がれたということは、この人への救いが天にいます父なる神から来ていることを示しているのです。主イエス・キリストとは、ただ重い病気を直すお医者さん、なのではなくて、父なる神より遣わされた救い主であることを示しているのです。
 「深く息をつき」とあります。この言葉は、「呻(うめ)き」とも訳される言葉です。耳も聞こえず口も聞けない言葉の失われた魂、さみしいさみしい魂、罪に呻く魂、悩みに満ちた魂、まさにその私たちの呻きに共鳴し、一緒に呻き、なんとか罪と悪しき力に囚われた魂を救い出さなければならない、という、主イエスご自身の愛の呻き、愛の激しさこそが、このため息なのです。
 そして「エッファタ」-これは主イエスが当時用いておられた言葉を、そのまま出しているのです。聖書の作者は、この主のお言葉を忘れ難い強烈な言葉として、ここに記録しているのです。「エッファタ-開け!」開けられよ!と命じられたのです。
 私たちは、これまでなんと閉じ籠った世界に生きてきたことでしょう。自由に口が利け耳で聞くことが出来るのに、なんと言葉の失われた閉ざされた世界に生きてきたことでしょう。そうじゃなかったでしょうか。しかし、主イエス・キリストのこの解放宣言は、私たちひとり・ひとりの閉ざされていた魂の扉よ、開け!開けられよ!と臨んで来たのです。あなたの魂の扉を開けて、解放してくださるお方がここにおられるのです。その方の愛に触れ、「エッファタ」という主の御声に出会った人は、みんな変わるのです。その人生が変えられるのです。
 「すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

 以前新聞に「話せた 世界が広がった!」というタイトルで、障害者用のパソコンが色々開発されているというニュースが大きく出ていました。吐く息や、まぶたの動きでも話せるものが出来てきたそうです。ある脳性麻痺の20代の男性が息で動かすスイッチで初めて文章を書きました。それは、「お母さん、ありがとう」、でした。言葉が使え気持ちを伝えられるようになって真っ先に出てきた言葉です。
 それになぞらえて言うならば、主イエス・キリストのおかげで罪と悪しき力に囚われた魂が開かれた時に「世界が広がった!」。教会に来るようになって「世界が広がった!」-それは私たちの実感でしょう。そして主イエス・キリストのおかげで、今まで遠い存在だと思っていた神は、実は父なる神として親しく臨んでくださっていたんだ。「父なる神様、ありがとうございます」と感謝できる道が生まれたのです。だから「この方のなさったことはすべて、すばらしい」美しい!という驚きと賛美の声が、主イエスと救われた男のまわりから溢れてきたのです。イエス様が奇跡を見せびらかせてはならないと口止めしても、感謝と賛美が溢れて止まらないのです。キリストの教会は、この驚きと賛美の声を響かせるところに他なりません。
シャガール(1887-1985)ロシア,ユダヤ人.「緑色のユダヤ人」(1914,100×80),「音楽の勝利」メトロポリタンオペラハウス大壁画(1966,1080×810) ブリューゲル(1525?-1569)オランダ.「バベルの塔」(大バベル:塔の崩壊のある方)(1563,114×155),(小バベル:1568,60×74.5)