日本キリスト教団 茨木教会

ともしび 2022年4月17日 イースター号

「主なる神のパッション 受難と復活!!」

「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」
マタイ27:46 協会共同訳
 それは結婚して半年ほどの頃でした。教会の年配の方から、「都合が悪くなったので代わりにどうですか」と、音楽会のチケットを二枚戴きました。当時私は、ジャズやポップスやフォークソングは大好きでしたが、クラシック音楽は全く未知の世界で、正直なところとてもそんな柄ではないと躊躇する気持ちがありました。けれどもせっかくのご好意ですし、夫婦で音楽会デートもいいものだ、と感謝して受け取りました。
 その日私は会社を定時で飛び出し、一路上野の東京文化会館に向かったのですが、開演時間に若干間に合いませんでした。生まれて初めて、シーンとした大ホールの扉を恐る恐る開けた瞬間、私の前に広がっていたのは、ワァオー!何たる音の洪水!『マタイ受難曲』の壮大な世界!!
 それはまさに鳥肌立つ未知との遭遇でした。扉の所でしばし立ちつくし、めまいに似た感動を覚えました。ホール全体が波打つような大合唱には、目も耳も心も何もかも奪われてしまいました。「これがバッハか!こんな世界があったんだ!」と興奮しながら、序曲が終わったところで着席しました。すると、先に到着していた隣の妻が肘で私をつっつきました。そして私の手を取り、自分のおなかに乗せて、耳元でささやきました。「赤ちゃんが動いたみたい。はじめて動いた」……
 エリサベトがマリヤを迎えた時、胎内で子が踊ったように(ルカ1:41)、キリストの受難の尊さを告げるバッハの至福の音楽にわが子が踊った?!?!?!……このことは長い間夫婦だけの秘密にしていました……
 さて、それからほどなく教会青年会からの結婚祝いに、こちらの希望通りJ.S.バッハの『マタイ受難曲』のレコードを戴いた時の私達の喜びようは言うまでもありません。そして遅まきながらようやく知りました。英語で、『受難』とは、大文字のパッションPASSIONだったと言うことを……。

 そのレコードを戴いて間もなくのことです。出産前の妻が三度も救急車で運ばれることがありました。一時は医者から、「おなかの子は諦めてください」とさえ言われました。高熱が続く床で、赤い眼をした妻が、このレコードジャケットを見ながら、「これに比べたら大した事ないね」と言った言葉を忘れることが出来ません。
 恩師左近 淑先生がエッセイでこう言われています。 「キリスト教は、人生の終わりにある、のたうつような苦しみの現実から目をそむけはしない。そこに最も新しいことの実現を見る。人生と文化の果てに最も新しいものを見るとは、そこにキリストが立っておられる、のたうつような苦しみの中にキリストが偕(とも)におられるということである。…『苦しんで死んだってよいではないですか。どうして悪いんです。イエスさまは十字架で苦しんで死なれた。苦しんで死ぬのは、イエスさまに最も近くなることではないですか…』」(著作集Ⅴ「新しい歌をうたおう」)
 確かに福音書は、主イエスの苦しみを記しています。主イエスご自身が、幾度も自分は「多くの苦しみを受け、殺される」ことを預言していました。そして事実苦しみのいや果てに、十字架刑に処されました。
 しかし、主イエスの「苦しみ」とは、何なのでしょう。福音書をつぶさに見ても、私たちが通常想像する肉体的な苦痛の描写はまったく見当たりません。かつて『パッション』という映画(監督メル・ギブソン2004年)では、主イエスが鞭打たれる場面や十字架に架けるために足や手に釘を打ち付ける場面を執拗に描いていました。そのあまりに残酷なシーンのためショック死する人も出たと話題になりましたが、……おそらくあれは、福音書を誤読していたと私は思います。本来聖書が伝えたい「苦しみ」ではありません。福音書にあれほど生き生きと描写されているピラトや兵士たちや群衆の姿に較べて、主イエスの具体的・肉体的な「苦しみ」の様子については、福音書は驚くほど寡黙なのです。
 それなら、福音書が伝えようとしている主イエスの「苦しみ」とは何なのでしょうか。
 それは、十字架上の、あの主イエスの叫び声が教えてくれます。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ/わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
 ここには、主イエスの胸裂く苦しみ、絶望が込められていると言えましょう。[神から捨てられる]-その苦しさ恐ろしさを真底知る主イエスがここにいます。
 しかもその絶望の叫びは、詩編第22篇の言葉を用いて、「わが神、わが神」と、最後の最後まで父なる神への一条の信頼に賭ける言葉となっています。
 信頼と絶望…という両極のはざまに、主イエスの十字架はあるのです。そして、きっとそこに、主イエスの苦しみの秘儀があるに違いありません。
 しかし何故「わが神に見捨てられる」苦しみを、主イエスはこの極みで告白したのでしょう。
 それは主イエスが、神から見捨てられるほどの「罪人」になられたから、我ら「罪人」の代表となられたから、我ら「罪人」の味方になられたからでしょう。主イエスは最後の最後まで我ら人間の側に立たれ、その先頭で、両手広げ、神の裁きを防ごうとしたからに他なりません。「やめてください。その罪人への裁きは、わたしが代って受けます」と!
 あのアブラハム(創世18章)よりも徹底的に、あのモーセ(出エジプト32章、詩106:23)よりも激しく、命の盾となってくださったのです。神の怒りの雷を全部引き受ける、十字架という避雷針そのものになってくださったのです。
 それはただ一事のためです。罪と惨めさと死の恐怖にのたうち苦しむ我らを守るために、です。神の義の剣を、主イエスはその胸板で代って受けてくださったのです。「とりなし」などという言葉では到底表わし尽くせぬ、我ら罪人を憐れむ、主の熱愛・熱情(パッション)の犠牲があったのです。「罪人」でありながら、「罪」の深刻さに気づきもせず、「何をしているのか分からない」で、「罪」に「罪」を重ねてしまっている、愚かで憐れな、ワ・タ・シ・タ・チのためにです。
 この「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の絶叫の後、マタイ福音書はこう続きます。
「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」(27:50-53)
 主イエスが息を引き取られたとたん、まさに天変地異が起こった、おどろおどろしい事態が表現されています。「これは一体どういうこと?」と首をかしげたくなる、不可思議な印象を与えます。しかし私は思うのです、地震が起こり岩が裂け墓が開くという激しい表現は、主イエスの十字架の死に対する、父なる神のパッションを表していると。愛する独り子を犠牲にした慟哭(どうこく)と、独り子の犠牲愛に対する深い賛意、それを表していると思うのです。愛する独り子が、罪人の救いのために我が身を投げ打つ姿に、十字架の死に、父なる神が、握り拳で大地を叩き、「まことあっぱれ!よくやった!」と応えられたのだと思うのです。そして父なる神が、聖所を閉ざす幕を自ら引き裂いて、墓の岩を打ち開き、「愛するわが子の十字架のゆえに、もはやだれでもみ前に来てよい!私の愛を与えよう!愛するわが子のゆえに、復活の命を与えよう!」と宣言されたのです。主イエス・キリストの熱情(パッション)の受難(パッション)に応えて、父なる神の熱情(パッション)の救いの道、復活の道が示されたのです。
 音楽評論家吉田秀和氏は、「《マタイ受難曲》は、私見では、西洋音楽文化が生み出した最高級の作品である。もし、西洋音楽から、たった一曲を選べと言われたら、私は同じバッハの手になる《ロ短調ミサ曲》とこの曲との間で、さんざん迷った末、結局、この《マタイ受難曲》を選ぶことにしただろう。」と述べています(『バッハ』河出文庫)。またバッハ研究家礒山雅氏は、「私は、構想の雄大さと親しみやすさ、人間的な問題意識の鋭さにおいて《マタイ受難曲》こそバッハの最高傑作であると思っている。この作品には、罪を、死を、犠牲を、救済をめぐる人間のドラマがあり、単に音楽であることをはるかに超えて、存在そのものの深みに迫ってゆく力がある。それはわれわれをいったん深淵へと投げ込み、ゆさぶり、ゆるがしたあげく、すがすがしい新生の喜びへと解き放ってくれる」と語っています(『マタイ受難曲』東京書籍)。
 なぜにこうまで評価されるのでしょうか。それは、マタイ福音書に啓示された主イエス・キリストの熱情の受難(パッション)が、バッハに聖なる情熱(パッション)を与え燃え上がらせ、聖なる使命へと駆り立て、神賛美をもって人々の魂へと向かわせたからだと思います。
 この《マタイ受難曲》は1727年4月11日、ドイツのライプチヒにある聖トーマス教会で、受難週の聖金曜日の晩課礼拝で初演されたそうです。それから300年後の今の私たちにもその熱愛(パッション)が届けられ、私たちを十字架と復活のキリストへと向かわせます。
J.S.バッハ《マタイ受難曲》は、マタイ福音書26:1~27:66の聖句とコラール(讃美歌)そして詩人ピカンダーの自由詩をバッハが組み合わせて作曲したもので、3時間に及ぶ大曲です。初演以降数回演奏されただけで、バッハ没後は永く忘れられていましたが、100年後に若きメンデルスゾーンによって発掘され再演されたことは有名な話。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は一体どんな演奏になっているか…ぜひご自分で聴いて欲しいのですが、「絶叫」とは裏腹の、極めて抑制された声で歌われています。しかし逆に、それが信頼と絶望を表し悲痛が胸に迫ってきます。しかも、他の主イエスの歌では必ず背後に弦合奏があるのに、ここではその光背が消え、弱くオルガンが聞こえるだけです。神学・信仰書を読んでいたであろうバッハの深い聖書理解が伺えます。