日本キリスト教団 茨木教会

ともしび 2021年9月5日 振起日号

「応答せよ、応答せよ!」

「私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれる人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!メロス。」
この文章は、一読すればすぐお分かりのとおり、太宰治の小説、『走れメロス』の一節です。ニキビ面の中学生の頃、初めて教科書で読んだときには、「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題ではないのだ」といった言葉に照れくささを覚えたものですが…、きっと太宰は、こんな世界に憧れ、含羞を覚えつつも、夢見るようにこの小説を書いたのだと思います。
ただ、改めて読み直してみて、「少しも疑わず、静かに期待してくれる人があるのだ。私は、信じられている。私は、信頼に報いなければならぬ。それだから走るのだ。信じられているから走る。」-そこに聖書的な一片の真理が秘められていると思います。
 ところで、聖書にこんなイエスさまのお話があります。少し長いですが引用します。
「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
(マタイ25:14-30 協会共同訳)
 これは、主イエスが十字架に架けられる二日前に弟子たちに語られた、遺言のようなたとえ話です。
 話の筋は子供でも分かる単純な話です。ここに出ている「ある人」「主人」と呼ばれているのは主イエス・キリスト、神さまのことです。そして「僕」とは私たちのことでしょう。主イエスは私たちに、ご自分の大切な財産・宝を「預けた」と言われています。「与えた」ではなく、「預けた」です。その預けた財産は5タラントン、2タラントン、1タラントンと言われています。「タラントン」とは日本語のタレントの語源で、もともとお金の単位です。大体、労働者の20年分位の給料に当たります。仮に年収500万円だとすると20年で1億円という大きな単位です。(それで特別の才能のこと、またそれを持った人をタレントと言うようになったのです。)
 主人は三人の僕に5億円、2億円、1億円を預けて旅に出ます。つまり、私たちの人生は、私一人の人生ではなく、神の大切な財産、キリストの宝の命、永遠の命が預けられている人生なのだということを、イエスさまは十字架で死なれる直前に、どうしても私たちに分かって欲しくてこの譬えを語られたのです。
 私たちは、ともすれば、自分の人生なんだから自分の好きなように生きたい、自分の願った通りに人生が進んでゆくことを理想とします。喜びに満ちた人生、充実した人生、豊かな生活、健康な生活-そういう自分の願った人生・生活を実現しようと期待しています。ところが実際には願い通りにはいきません。突然病気や事故に遭う。大震災に襲われ、会社が倒産したり、人間関係がこじれたり、今私たちが直面しているコロナ禍によって道が塞がれてしまうことだってあります。そうしたことが起こるたびに、「私の人生、こんなはずじゃなかったのに…」という不満や挫折感や失望、絶望に陥ってしまいます。
 けれど聖書が、キリストが先ず私たちに語ろうとしていることは、繰り返しますが、「あなたの人生は、あなた一人の人生ではない、私が十字架で自分の命を捨てるほどの愛を注ぎ込んで預けた人生なのだ。あなたに貸し与えている人生なのだ。あなたを愛し信頼し期待している命なのだ」ということなのです。
 さあ、主人である神の期待にこの三人の僕はどう応えていったでしょう。
「早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた」。その結果、「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」と主人から同じお褒めの言葉をいただきました。
彼らは自分の預かったものを主人の愛と信頼の込められたものとして受け止め、それぞれの力に応じて精一杯働きました。愛に応えて働いたのです。「働く」-それは人のために動くと書きます。愛とは動くものです。じっとしていません。愛する人は、祈ります。今の自分に何が出来るか考えます。思い切って手を伸ばし、足を一歩踏み出し、関わっていきます。動き出せば失敗も起こります。でも諦めません。トライ、アゲイン!キリストの赦しの愛の後押しがあるからです。
 「主人と一緒に喜んでくれ」という言葉は、直訳すると「あなたの主人の喜びの中に入りなさい」という言葉です。キリストから預けられた人生に精一杯応えて生きることにより、キリストの大きな喜びの交わりの中に確かに入れられるということなのです。
 ここで重大な事実に私たちは気づかされます。生きる「喜び」とは、求めるべき目的ではなかったのです。「生きる喜びが欲しい」と青い鳥を追いかけるように求めても、それはなかなか手に入らない。逆に、キリストから預けられた命・人生を、キリストに向かって精一杯に応えて生きるときに、喜びが与えられるのです。

 しかし、3番目の僕の答えはこうです、「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です」。
 彼は主人の愛と信頼に応答しませんでした。ひねくれて、こんなこと任されても困る。失敗したら叱られると、キリストの期待を信じられず、受け止めなかったのです。彼は主人が帰って来るまで何をしていたのか。止まって、動いていなかった。愛が冷えると人は動かなくなります。愛を忘れると、動けなくなります。彼は金を盗む罪は犯していません。しかし、神の愛と信頼を疑る罪、期待に応えぬ怠惰な罪に陥っていたのです。自分の人生を土に埋めるような生き方になっていたのです。きっと彼は、自分のためだけに生きていたのでしょう。しかし自分のためだけの人生では、結局何のために生きているのか分からなくなってしまうのです。

 E.V.フランクル(ナチスの残虐な強制収容所を生き延びた精神医学者。その体験に基づく著書『夜と霧』は世界中で読まれた)は、極限状態で生きる意味を考え抜いた人ですが、こんなことを言っています。
「私たちが人生に対して何か期待すること。生きる意味があるのかと問うこと-それは根本的に間違っている。そうではなく、人生の方が私たちに問いを出している。私たちは、人生が絶えずその時その時に出す問いに応えなければならない。私たちがそれにどう応えて生きるか、それによって生きる意味を見出すことになる」(『それでも人生にイエスという』)
 それはまさに聖書から私たちが問われていることでしょう。私たちが自分の人生がこうなったらいいと期待することが一番大事なことではなく、また自分の人生に意味があるのかと問うことが一番大事ではなく、キリストの愛と信頼によって預けられた人生に、私たちがどう応え、どんな態度で生きるかが問題なのです。それはきわめて具体的なことです。例えば…自分が病気になった。自分に病気の人生が預けられている-それに対してどう応えて生きているかが期待されているのです。今、自分にはこの仕事に就いた人生がある-それにどう応えていくか。自分は高齢になった-その終わりに近づく人生をどう全うしていくのか。コロナ禍にある時代に生きている-そこで自分に何が期待されているのか-それらを考え行動するのです。
 この譬えでは5・2・1タラントンと違いがあります。私たちはその違いの方が気になり、比較し、ひがんだりうらやんだり、高慢になったり、優越感や劣等感に振り回されがちです。1タラントンの人は、他の二人より少ないのでふて腐れたのかも知れません。
 たしかに私たちの人生はみな違います。過酷と思える人生もあれば、のうのうと生きているような人生もあります。しかし、この主人の言葉は一緒です。つまりそうした違いは、神さまのみ前では全く問題にならない、ということです。

*絵画:ジュール・ブルトン(1827-1906)「収穫」「落ち穂拾いの思い出」

 むしろ主イエス・キリストは、私たち一人一人、それぞれにしか生きられない固有の人生を貸し与え、十字架の愛を注いでくださっているのです。私たちの命には、みんなキリストの血が流されているのです。そして私たちが応答することを期待しておられるのです。そして「さあ、わたしの喜びの中に入りなさい」と大きな喜びの輪を用意してくださっているのです。
「私を、待っている方があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれる方があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!クリスチャン」