日本キリスト教団 茨木教会

ともしび 2021年4月4日 イースター号

「主イエスが見たもの」

 つい先日、今まで見たことのなかった絵に出会いました!
 大勢の人たちの視線がほとんどみんなこちらを見ています。一点に集中しています。彼らはいったい何を、誰を見ているのでしょう。
 これはフランスの画家、ジェームズ・ティソ(1836-1902)の「私たちの主が十字架上から見たもの」(1886-94 24.8×23cm ブルックリン美術館)という作品です。なるほど、ここに描かれている人々は、みな上を見上げています。それを辿っていくと確かに高い位置になります。また、画面の一番手前にはなんと裸足の先がわずかに出ています!
 ということは・・・ここには主イエスの十字架の影も形もありませんが、しかし、確かに十字架に架けられた主イエスが存在しています!
 ドイツ文学者で西洋文化史家の中野京子氏はこの絵をこう解説しています。
 「ふつう十字架の支柱は3メートルだったというから、下部は土の下に埋められたにせよ、かなりの高さになる。…磔刑ではすぐ死なない(死ねない)から、架けられた者には下を見る時間は充分あった。血流が悪くなり、しばらくすると朦朧(もうろう)とするようだが、はじめのうちはかなり明瞭に見えたはずだ、もしかしたら、このように。/十字架にすがりつくのはマグダラのマリア。そのうしろに聖母マリアと女性弟子たち。少し離れた左横に立っている若者は、使徒ヨハネ。右側の立派な乗馬姿が祭司長たち。彼らは苦しむイエスに、人を助けず自分を助けたらどうだ、神の子なのになぜ神は助けに来ない、と嘲笑したと言われている。鉄兜のローマ兵もいる。右下にしゃがみこむ処刑人のそばに瓶が二つあるが、ここには麻薬入りワインが入っており、イエスが叫んだ時、海綿に含ませて長い棒の先に付け、飲ませようとしたものだ。中景に洞窟が口を開けている。後のイエスの埋葬所であろう。」(『名画の謎』旧約・新約聖書篇)
 「キリストの十字架」「磔刑(たっけい)」の絵画はこの世におびただしいほどあります。エル・グレコやルーベンスやレンブラントといった巨匠のみならず、有名無名の画家たちがそれぞれの信仰と洞察をもって「十字架」を描いてきました。しかしこの絵は、十字架上のキリストの眼差しに自分の眼差しを重ね合わせて描くという、これはなんとも畏れ多いというか、なんとも大胆不敵というか、ともかく少なくとも私が今まで味わったことのない絵画体験を引き起こしました。
 ご一緒にこの絵を見つめつつ、聖書のみ言葉を思い起こしつつ、「私たちの主が十字架上から見たもの」に思いを馳せてみましょう。

 実はこの絵には、ヨハネ福音書19:25-27のみ言葉が添えられていました。
 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

 確かに・・・画面中央には主イエスの母マリアが胸に手を押し当て、その左には愛する弟子(使徒ヨハネか)が手を握りしめながら見上げています。今まさに十字架上から主イエスが、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」と語りかけている、その声に彼らが全身を傾けている情景をこの絵は活写していると言えるでしょう。
 主イエスが自分の母親に、「婦人よ」と呼びかけていることに違和感を持つ方がいるかもしれません。しかし十字架上の主イエスは、ここで単に肉親に死の別れを告げ、ご自分が逝った後のことを弟子に託した、というだけではありません。いやむしろ、異質な呼びかけをすることによって、血のつながりを越えた新しい関係が始まるのだ、ということを暗示しているのです。すなわち、主イエスが十字架によって犠牲の愛を注ぎ尽くす「そのときから」、新しい人間関係が築かれていくことを示しているのです。
 私たちが抱える問題の多くはお互いの関係ではないでしょうか。それがたとえ親密な親子であっても、夫婦であってもです。その人間関係の問題とは、言い換えるならば、愛の問題です。私たちは、愛を求め、愛に悩み、愛を病んでいます。主イエスは最後の晩餐の席上で、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われました(ヨハネ15:12-14)。そのことを最後の最後に言われたということは、主イエスが十字架に向かわれたのはこの目的を果たすためだった、ご自分の愛を注ぎ尽くし、私たちの間に新しい愛を生み出し、キリストの愛に基づく愛の共同体、教会を創造していくためだった、そう言えるのです。それだから、「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた」のです。そして、「『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」のでした。

 ところで、「私たちの主が十字架上から見たもの」は他になかったでしょうか。
 ルカ福音書にこういう記述があります。
 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
(ルカ23:33-39 協会共同訳)

 この絵の中に様々な人々が描かれています。祭司長とその仲間、鉄兜のローマ兵に処刑人、その他多くの群衆・見物人がはるか遠くにまでいます。もしやその中に主イエス逮捕の時に逃げ散った弟子たちも…。彼らがみんな「私たちの主が十字架上から見たもの」の中に入っています。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
 この「彼ら」とは、主イエスを十字架に追いやったユダヤ教指導者達(長老、律法学者、祭司長)でしょう。また「彼ら」とは、主イエスを「十字架につけろ」と叫び続けた群衆でしょう。また「彼ら」とは、主イエスを裏切ったユダであり、逃げ散った弟子たちや、主を否んだペトロでしょう。また「彼ら」とは、最終的に死刑判決を下したローマ総督ピラトであり、愚弄した兵士たち、槍で刺した処刑人でしょう。彼らは、立場もそれぞれ違います。しかし皆、結局のところ、自分の小さなエゴの世界を守るために、責任を逃れ、キリストを排除し、キリストを十字架へ追いやってしまった!その罪の深刻さをまったく知らずにです。そしてそれは、今を生きる私たちもではないでしょうか。己が身を守るため、自分で自分が分からなくなり、見えない殺人を繰り返してしまっている私たちも…。
 主は、「彼ら、我ら」の赦しを父なる神に真実に祈り切るために十字架に架かり、ご自分の命を罪を償う供え物となさったのです(ローマ3:25)。アーメン
あなたもそこにいたのか、主が十字架についたとき。
ああ、今思い出すと、深い深い罪にわたしは震えてくる。
(讃美歌306アフロアメリカンスピリチュアル)
今回取り上げたティソの絵は、『キリストの生涯』という365点の水彩画の作品群の中の一枚です。これは聖書の言葉と絵と組み合わされて出版されました。彼はこれらの聖画を描くまでは、イギリスやフランスの上流社会の貴婦人を見事に描く風俗画家でしたが、愛人を亡くし、親しい兄を亡くし、傷心の中、四十代の後半、聖堂で慰め主キリストの幻を見て、それが「見よ、私はお前より憐れむべきものである。私はお前の抱えるすべての問題の答えである」と告げられたように思え、カトリック信仰を回復し、一大転換をして、生涯最後の16年間、聖書のみを描くことに没頭したのでした。そのために三度パレスチナやシリア、エジプトを旅行し、膨大な資料をもとに描き続けたのです。以下にごく一部を載せておきます。なお電子書籍は安価で入手できます。興味のある方はどうぞ。
James Tissot: The Ministry, Crucifixion and Resurrection of Jesus Christ with Verse - 300 Watercolor Paintings - New Testament (English Edition)