ともしび 2020年12月20日 クリスマス号
「クリスマス-低きに下る神のまなざし」
「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさ
によって、あなたがたが豊かになるためだったのです」
(コリントの信徒への手紙二8:9 協会共同訳)
19世紀末の作家オスカー・ワイルドの童話に『幸福の王子』という作品があります。子供の頃読んだ方も多いでしょう。それはこんな出だしで始まります。
「ハレルヤ。
主の僕らよ、主を賛美せよ
主の御名を賛美せよ。
今よりとこしえに主の御名がたたえられるように。
日の昇るところから日の沈むところまで主の御名が賛美されるように。
主はすべての国を超えて高くいまし
主の栄光は天を超えて輝く。
わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。
主は御座を高く置き
なお、低く下って天と地を御覧になる。
弱い者を塵の中から起こし
乏しい者を芥の中から高く上げ
自由な人々の列に
民の自由な人々の列に返してくださる
子のない女を家に帰し
子を持つ母の喜びを与えてくださる。
ハレルヤ」
(詩編第113編 協会共同訳)
ただ…、私たちは、このパンデミックの中で大いなる事実にも気づかされているのではないでしょうか…、私たちは、国や民族や宗教を越え、悪人も善人も、どんな生い立ちや境遇の者も、今や「同じひとつのところにいる」「我々はひとつである」ということに。そこで、自分たちの無力さを思い知らされ、そして共にうめき、救われることを共に待ち望んでいる、ということにです。
そして同時に、私たち全人類はとてつもなく大きな課題を主なる神から与えられているのだ、と思うのです。その課題とは、「愛」です。「同じひとつのところにいる」「我々はひとつである」と気づいた私たちが、本当に「ひとつ」であろうとしているか、「ひとつ」であるよう互いに支え合って生きていこうとしているか、そこに愛はあるか、という問いかけです。その神の示す大いなる事実と大いなる課題に、私は深い感動と身に迫る恐れを覚えずにはいられません。
すでに、試練の中で黙々と奉仕する人たちがいます。「その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、…介抱」している無数の良きサマリア人がいます。感染リスクと戦いながら医療や介護の現場に立ち続ける人たちがいます。行政の中で、公共の利益のために神経をすり減らして働く人たちがいます。そこからも漏れている貧しい者弱い者の傍らに立ち、草の根の運動を続けている人たちがいます。おそらく、様々な葛藤を抱えつつも、「不幸を自分の眼で見てしまい、見てしまった上は、もう、愛するのは義務なのだ」、と踏み留まっているのでしょう。
このクリスマス、改めてクリスマスを見つめ直し、主イエス・キリストの「低きに下って」弱き者を見るまなざしを思い起こし、ア・リ・ウ・ベ・カ・ラ・ザ・ル神の激しい犠牲の愛を深く受け止め直しましょう。そして改めて深呼吸をして、私たちのぐるりを見回してみましょう、私たちも「幸福な王子」の目をもって、あるいは王子の目の代わりとなったツバメの目をもって。そして、見た以上は……
『幸福の王子』のラストシーン。神さまは天使に「この町で一番尊いものをふたつ」持ってこさせました。それはゴミ捨て場の小鳥の死骸と王子の心臓でした。そして神さまは、王子と小鳥をご自分のうるわしの楽園に憩わせたのでした。
「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」