日本キリスト教団 茨木教会

ともしび 2020年12月20日 クリスマス号

「クリスマス-低きに下る神のまなざし」

「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさ によって、あなたがたが豊かになるためだったのです」
(コリントの信徒への手紙二8:9 協会共同訳)

 19世紀末の作家オスカー・ワイルドの童話に『幸福の王子』という作品があります。子供の頃読んだ方も多いでしょう。それはこんな出だしで始まります。
 「その町の空高く、高い円柱の上に、幸福な王子の彫像が立っていました」…
 体は金箔で覆われ、目にはサファイアがきらめき、剣の柄には大きなルビーが輝いていて、その美しい像は町のみんなの自慢でした。王子は何の憂いもない、悲しみが入ることが許されない王宮の中で、「幸福」な日々、快楽に満ちた日々を送り、家来たちから「幸福な王子」と呼ばれていました。その死後、美しい彫像となって高台に立ち続けていたのです。
 そこへ一羽のツバメがやって来て、エジプトに渡る途中、王子の彫像の足下で一晩休息を取ろうとしました。するとその時、大粒の滴がツバメの上に落ちてきて…更に一滴、また一滴…。見上げると、それは王子の目から流れ落ちてきた涙でした。王宮の壁の中では知り得なかった、苦しみあえぐ町の人々の不幸を見てしまった、鉛の心臓をもつ王子の悲しみの涙だったのです。
 王子は、冬が近づき南へと急ぎ旅立とうとするツバメに、「つばめ、つばめ、小さなつばめ!」と何度も語りかけ、病苦の子を抱える貧しい女に剣のルビーを届けさせました。その翌日もツバメをなんとか説得し、今度は自分の目のサファイアを貧しい劇作家に渡させ、その次の日にはもう片方の目のサファイアもマッチ売りの少女に贈らせました。両目を失った王子から、もはやツバメは離れられなくなり、王子の目の代わりとなって、苦しむ人々のために何度も何度も王子の金箔を剥はいでは届けました。そして、深く愛した王子から離れられず、ついに雪降る冬の日、王子の足下 で死の眠りについたのでした。その時、鉛の心臓が音をたてて真二つに裂けて…。
 町の人々の自慢で憧れの「美しい幸福な王子」の彫像は、今や宝石も金箔も失われたただの鉛の塊、無用の長物となってしまったので、引き倒され、炉で溶かされてしまいました。しかし不思議にも溶けずに残った鉛の心臓は、ツバメが捨てられたごみ捨て場に同じく捨てられて…。

 聖書の中にこんな詩編があります。

「ハレルヤ。
主の僕らよ、主を賛美せよ
主の御名を賛美せよ。
今よりとこしえに主の御名がたたえられるように。
日の昇るところから日の沈むところまで主の御名が賛美されるように。
主はすべての国を超えて高くいまし
主の栄光は天を超えて輝く。
わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。
主は御座を高く置き
なお、低く下って天と地を御覧になる。
弱い者を塵の中から起こし
乏しい者を芥の中から高く上げ
自由な人々の列に
民の自由な人々の列に返してくださる
子のない女を家に帰し
子を持つ母の喜びを与えてくださる。
ハレルヤ」
(詩編第113編 協会共同訳)
 ここで主なる神さまは、「すべての国を超えて高く…天を超えて輝く」、どんなものも並べられない比類なき方である、とほめたたえられています。ところが、その天、すら超える大いなる神が、「低く下って天と地を御覧になる」-これは高見の見物とはまるで違います。「低く下る」とは「身投げする」という意味もあるらしいので、最も高きところにおられる神さまが、もっとも低い低いところまでご覧になって、いや見ているだけでは済まなくて、まるで身投げするように最も低いところに飛び込んでくださった。そして、「弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げ…」-神さまであるお方が塵芥・ゴミ捨て場の中にまで下って来られ、そこに埋もれ、生きる屍となっていた弱い者貧しい者を引き上げられた!…というア・リ・ウ・ベ・カ・ラ・ザ・ルことが起こっていることをこの詩は歌っているのです。不思議です!イスラエルの民はどうしてこんな神さまがおられることを知り得たのでしょう。でも本当だったのです、だからクリスマスが事実起こったのです!
 クリスマスとは、最も高きところにおられ何不自由ない豊かな神のみ子イエスが、最も低い弱く貧しい者たちをご覧くださり、見てしまった以上もう放っておけない、愛さないわけにいかない、愛することは義務なのだと言わんばかりに身を乗り出し、いや身を投げ捨てて馬小屋まで来てくださった、罪人のこの世のゴミ捨て置き場にまで来てくださった、そういう出来事なのです。
 「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」
 現在、新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)によって全世界が大試練の中にあります。それによって私たち人間の虚飾が剥ぎ落とされ、グロテスクな姿がむき出しになったところがあります。国際間でも身近なところでも、いちいち例を挙げませんが、我が身を守らんがための排除・分断・差別の論理が横行しています。ローマ教皇フランシスコは、新型コロナウイルスよりも「より悪質なウイルス」感染に気をつけなければならない。それは「無関心なエゴイズムというウイルス」だと全世界に警告を発しています。
 ただ…、私たちは、このパンデミックの中で大いなる事実にも気づかされているのではないでしょうか…、私たちは、国や民族や宗教を越え、悪人も善人も、どんな生い立ちや境遇の者も、今や「同じひとつのところにいる」「我々はひとつである」ということに。そこで、自分たちの無力さを思い知らされ、そして共にうめき、救われることを共に待ち望んでいる、ということにです。
 そして同時に、私たち全人類はとてつもなく大きな課題を主なる神から与えられているのだ、と思うのです。その課題とは、「愛」です。「同じひとつのところにいる」「我々はひとつである」と気づいた私たちが、本当に「ひとつ」であろうとしているか、「ひとつ」であるよう互いに支え合って生きていこうとしているか、そこに愛はあるか、という問いかけです。その神の示す大いなる事実と大いなる課題に、私は深い感動と身に迫る恐れを覚えずにはいられません。
 すでに、試練の中で黙々と奉仕する人たちがいます。「その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、…介抱」している無数の良きサマリア人がいます。感染リスクと戦いながら医療や介護の現場に立ち続ける人たちがいます。行政の中で、公共の利益のために神経をすり減らして働く人たちがいます。そこからも漏れている貧しい者弱い者の傍らに立ち、草の根の運動を続けている人たちがいます。おそらく、様々な葛藤を抱えつつも、「不幸を自分の眼で見てしまい、見てしまった上は、もう、愛するのは義務なのだ」、と踏み留まっているのでしょう。
 このクリスマス、改めてクリスマスを見つめ直し、主イエス・キリストの「低きに下って」弱き者を見るまなざしを思い起こし、ア・リ・ウ・ベ・カ・ラ・ザ・ル神の激しい犠牲の愛を深く受け止め直しましょう。そして改めて深呼吸をして、私たちのぐるりを見回してみましょう、私たちも「幸福な王子」の目をもって、あるいは王子の目の代わりとなったツバメの目をもって。そして、見た以上は……

 『幸福の王子』のラストシーン。神さまは天使に「この町で一番尊いものをふたつ」持ってこさせました。それはゴミ捨て場の小鳥の死骸と王子の心臓でした。そして神さまは、王子と小鳥をご自分のうるわしの楽園に憩わせたのでした。

 「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」