日本キリスト教団 茨木教会

ともしび 2020年7月19日 礼拝再開感謝 特別号

「祈りの世界をあなたに」

いつまでですか、主よ。
私をとこしえにお忘れになるのですか。
いつまで御顔を隠されるのですか。
いつまで私は魂に思い煩いを心に悲しみを日々抱き続けるのですか。
いつまで敵は私に対して高ぶるのですか。

わが神、主よ、私を顧み、答えてください。
私の目を光り輝かせてください死の眠りに就くことのないように。
私が揺らぐのを見て
敵が、勝ったと言わず
私を苦しめる者が喜ぶことのないように。

私はあなたの慈しみに頼り私の心はあなたの救いに喜び躍ります。
「主に歌おう 主が私に報いてくださった」と。
(詩編 第13編 協会共同訳)

 ウイルス感染拡大防止を考え、4月1日より、定例の祈祷会を休止する代わりに、教会に連なる人々の日常の信仰生活、み言葉に聴き祈る生活を促すために、長老会で『祈りのしおり』をメールや文書で発信することにしました。その第一回目に届けた詩編が上記の詩編第13編です。その後に短い文章を添えました。
 「この詩のように、私たちは今、『いつまでですか、主よ!』と叫びたい思いです。
 主なる神が、この世に吹き荒れている嵐を静めてくださるように、共に祈っていきましょう。
 この詩編の祈りの言葉は『私』個人の祈りのようです。
 しかし、この個人の祈りを、神の民が、「私もそうだ!」と何千年もの間祈ってきたものです。
 ご自分の祈りの言葉として、重ねて、声に出して祈ってみてください。
 そして神の民に連なっている自分を見出してください。
 教会共同体のため、日本のため、世界のためにお祈りください。」

 これを書いた時、私の念頭にあったのは以下の文章でした。
 「強制収容所に入れられた者が、歌や言葉や沈黙をもって神をほめたたえる時、いつでも彼は、自分が一個人ではなく、信徒の一員であることに気づかされた。飢えや寒さの中、尋問の間、あるいは死刑を宣告された時でも、彼は神をほめたたえる特権があることを知り、彼は自分が、教会の神へのほめたたえによって、あらゆる点で支えられていることを知ったのだ」これはある旧約学者の詩編の研究書の序文に書いてあったものです。彼自身、ナチスの捕虜収容所に入れられたのですが、その時唯一持ち込みが許された詩編付新約聖書を耽読し、獄中で、詩編の世界が人間の根本的在り方を表現する深い祈りの書であることを再発見したのでした。また彼は別の著書でこうも言っています。
 「われわれはこれらの個々の詩の背後に、ただひとりの人間がいると考えるべきでなく、その背後には、祈る人の長い列があると考えるべきである」と。
 教会堂に共に集まって礼拝することができなかった期間、ある人は、「陸の孤島にいるようだ」と言われていました。特に独り暮らしをしている人たちは同様の思いをもたれたことでしょう。だからこそ、詩編の祈りの世界の窓を開き、神をほめたたえ祈ることを通して、「自分は独りではない、神の民の一員として祈る共同体の中に生きているのだ」、ということをお伝えしたかったのです。

 あらためてこの詩を読んでいきましょう。
いつまでですか、主よ、(あなたは)私をとこしえにお忘れになるのですか。
いつまで(あなたは)御顔を隠されるのですか。

 「いつまでですか、一体いつまでなんですか」と、この人は、終わりが見えない自分の苦しみを、主なる神にぶちまけ、嘆いています。「あなたは私のことを忘れてしまったのですか。あなたは私の前から姿を隠され、もう私を見てくれていないのですか」と、主なる神の胸板を叩くように訴えています。

いつまで私は魂に思い煩いを、
心に悲しみを日々抱き続けるのですか。

 今度は自分自身に目を移して…「いつまで私はわが魂に、わが心にこの思い煩いや悲しみを抱え続けなければならないんですか。私のこの状態は一体いつまで続くのですか、主よ」と訴えています。

いつまで敵は私に対して高ぶるのですか。

 この「敵」とは誰のことか。自分を苦しめている他者のことか、それとも、病や死といったことを暗示しているのか、それはいかようにも読むことができます。とにかく、自分を束縛し不自由にしてしまっている元凶です。「いつまで私を苦しめる敵をのさばらせているのですか、主よ」と訴えているのです。
そしてその切迫した思いをもって、主なる神に懇願していきます。

わが神、主よ、私を顧み、答えてください。
私の目を光り輝かせてください、死の眠りに就くことのないように。
私が揺らぐのを見て
敵が、勝ったと言わず、私を苦しめる者が喜ぶことのないように。

 この祈願は、いわゆる家内安全・無病息災といった我が身を守ることばかりを求める「祈願」とは質が違います。主なる神に向かって「私を見てください!私に答えてください!」と、神さまとの関係を確かにしたいと求めているのです。まるで関係がぎくしゃくしてしまった恋人同士が、もうこれで終わりになるかもしれない、だからちゃんと向き合って自分の気持ちをぶつけ、関係を正そうとしているような、神さまを生身の相手として向かっている姿がここにあります。そして、苦しみのあまり生きる気力を失い、生ける屍のようになっている自分に対し、「目を光り輝かせてください!」、私に生きる希望を与え、もう一度喜びを与えてください、と懇願しているのです。
 更に、自分を苦しめる敵が、「あいつは神を信じ、神に頼って祈っているけれど、結局何の役にも立たないじゃないか。信仰なんて空しいものだ、弱い者の自己憐憫に過ぎないんだよ!」とあざ笑う口を封じてください!とお願いしているのです。ところがここで、まったく意外な言葉がこの人の口から出てきました。

(しかし)私はあなたの慈しみに頼り私の心はあなたの救いに喜び躍ります。
「主に歌おう 主が私に報いてくださった」と。

 それまでの口調とまるで違います。180度事態が変わってしまったかのようです。しかしこの人は「主が私に報いてくださった」と言っていますが、実際お祈りしたらたちまち敵が退けられたとか、病が癒やされたということではないでしょう。おそらく外的事態はなんら変わっていない。にも関わらず、祈り続ける中で、沈黙している神が、沈黙を通して、「私は世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」と応えてくださっていることを、この人は発見したに違いありま せん。ここに詩編の世界の不思議さがあります。祈りの世界の奥深い不思議さがあるのです。

 新型コロナウイルスの蔓延によって、暗雲がこの世界全体を覆っているようです。肉体が病魔に冒される不安、死への恐れ、そこから派生して、自己防御・自己保身のあまり、人間の精神・心までもが冒され、疑心暗鬼や悪意の壁が蔓延してきているように思えます。未曾有の事態(本当は違います!)ゆえに、自分たちが「何をしているのか分からなくなっている」からではないでしょうか。私たちキリスト者さえもそうした渦に巻き込まれると、敵=死を必要以上に恐れ、現世主義的な「祈願」に陥ってしまいかねません。
 だからこそ私たちは、この詩編が示す、深い内的で豊かな祈りの世界、死をも越える主なる神との交わりの世界があることをここで想い起こしましょう。そして、その世界をこそ、私たちはこの世にあって宣べ伝えていく使命があると思うのです

 最後にルターの説教の一部をご紹介します。彼の時代も、ペストで多くの者が命を落としていました。しかし彼は、死の災禍に抗してこう語っています。
「あなたがたは死ぬ時、疑わないがよい、あなたが死人の中からよみがえらされるということを。もしあなたが死人の中に眠り続けねばならないとしたら、それは、神がいつわりを語られたのである。もはや神が、神であられないであろう。
まったく確かなことがある。わたしが、たとえ一千年もの間地下に眠っていたとしても、それでもわたしは、死人の内からよみがえるであろう。神のみ前にあっては、それはすでに起こったことであるかのように、確かなことである。たとえあなたが、ここになお死臭を放って横たわったままであったとしても、うじ虫があなたの肉体をむさぼっているとしても、ペストが流行し、梅毒がはやり、膿が流れ、でき物が出来たとしても、あるいは、死の体がカラスや狼の餌食になったとしても、なすがままにさせたらよい。それは何の害も及ぼさない。その死んだ体はやがて太陽や星よりも美しく輝くはずである。キリストがおよみがえりになって、神が神であられるようにそれは確かなことである。
それゆえわたしはラッパの響きを待っている。
『ヨハネよ、ペテロよ、ラザロよ、そして汝よ出て来なさい』そして一瞬の内にわたしたちのすべては、すべての手と足は最も美しい姿となり、我々自身が光を放つようになる。
これは真実でなくばならない。神が、神であられるからである」

アーメン!