ともしび 2019年12月8日 クリスマス号
「エバからマリアへ」
「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』」(ルカ福音書1:38)
聖書を一度も読んだことのない人でも知っている、聖書に出てくる一番有名な女性とは、イエスさまの母「マリア」ではないでしょうか。そして、更にもう一人挙げるとすれば、アダムとイブの「イブ」ではないでしょうか。「マリア」は新約聖書に登場します。一方、「イブ」(イブEveは英語読みですが、聖書の中ではエバEvaと呼んでいますので、以下はエバと書きます)は旧約聖書に登場します。このエバとマリアの二人の女性の姿、それは私たち人間の生きる両極の姿を表しているように思えます。
「エバ」は聖書の創世記2~4章に登場しています。
主なる神さまは、人(アダム)を創造されたそのすぐ後で、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と決意されました。神さまは、本来人は孤独に生きる存在ではなく、愛し合い共に生きる者が必要なのだ、というお考えだったのです。それで…
「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた」のでした。
主なる神さまが、人のふさわしい相手を人のあばら骨から造られたということは、まさにアダムの心のかたわらにエバが生きる者として造られた、ということでしょう。このふたりは、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」(創世記2:24~25)とありますように、実に喜ばしいスタートを切ったはずでした。
しかし聖書の続きを読んでいきますと大変なことになります。神さまはアダムたちに、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と命じていました。しかしエバは蛇の、「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」という誘惑の言葉にそそのかされ、神さまとの約束を破って食べてしまいます。それは、自分たちをお造りくださった主なる神さまの言葉よりも、「神のようになる」という蛇の言葉、罪の誘惑の言葉になびいてしまった姿です。
その上、神さまから「何ということをしたのか」と責任を問われると、アダムもエバも次々と罪を互いになすりつけ合い、責任転嫁をしてしまうのです。そしてその結果、ふたりはエデンの園を追放されることになってしまいました。
これは、単なる神話ではありません。むしろ私たち人間の深層を露わにする物語だと言えます。エバが陥った「神のようになりたい」誘惑など、私たちには関係ないことのように思えますが、果たしてそうでしょうか。私たちの内に潜むエゴイズム、利己主義、つまり、自分の思い通りにやりたい、自分の欲望を充たしたい、自分の利益を追求して生きたいという思いこそ、「神のようになりたい」誘惑の虜になってしまっている私たちの姿ではないでしょうか。これこそ人間の罪の根本的な姿を現わしています。アダムとエバが、神から互いに愛し合って生きるようにと造られ生かされた者であることを忘れ、否定してしまった姿です。自分の身を守るためには責任を転嫁していく自己中心的な姿です。自分こそが人生の主人であることを主張し自分の身を守り抜く道は、本当の主人である神さまなんかいらないとする道と同じです。その道をエバとアダムはどんどん歩んで、神さまから遠ざかってしまったのです。これこそ私たち人間が現に歩んでしまっている、罪の道ではないでしょうか。
ところで、もう一方の聖書の代表的な女性であるマリアの姿はどうなのでしょう。ナザレという田舎町に住むマリアに、突然天使が現れた聖書の場面です。
「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。』マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。』天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。』
マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』」(ルカ福音書1:28~38)
マリアの前に突然立ち現れた天使の告げた言葉は、まったくもって身震いすることです。右の絵は英国の画家D.G.ロセッティ(1828-82)の作品で、伝統的な「受胎告知」の絵画とは一線を画す、近代的な描き方がなされていますが、天使の言葉におののく姿が良く描かれていると思います。
天使の告げたことは、自分が聖霊の働きによって身ごもるということです。誰が正気でこのことを受け止められるでしょうか。未婚の処女の娘が得体の知らない神の力によって妊娠するなど、理解し難いことです。笑い話にもならないことです。それに、もしもそんなことが仮に起こったとして、結婚前の女のお腹が大きくなったら、あの子はきっと不貞を働いたのだと後指さされ、律法により、姦淫の罪で石打ちの刑に処せられる事態です。
しかし不思議なことに、「そんな馬鹿な!あり得ない!だれがそんなことを信じられるか!」と誰もが言うに違いないことを、わざわざ聖書は、これが神の言葉であり、それが神のご計画であると、大真面目に述べているのです。この世の人たちがあざ笑うことを百も承知の上で、あえて聖書はこの出来事を記しているのです。どうしてなのでしょう。
それにまた、もちろんマリアにも自由がありました。マリアはこの天使の言葉を空耳だったと無視することも、そんなこと信じない!そんなこと嫌よ!と拒絶することも、冗談じゃない!と怒ることだって出来たはずです。
しかしついにマリアは、この天使が重ねて語る言葉に説得され、神の不思議な恵みの言葉と受け止めて、神の言葉にその身を委ねるのです。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
これは、自暴自棄な返事ではありません。ただ流れに身を任せ、なるようになれと無気力になっているのでもありません。「どうして、そのようなことがありえましょうか」と人間的な不可能性を自覚しつつも、人間的には到底計り難いことだとわきまえつつも、けれども、それが、神さまが自分を選び自分に熱心に愛をもって語りかけてくださっている神の言葉だと信じるゆえに、その身を賭けているのです。自分を主なる神さまに、「どうぞお使いください」と差し出す強い意志が確かにあるのです。左のエル・グレコの作品には、マリアのその澄んだ態度がさやかに描かれているのではないでしょうか。
ここに、あのエバにはない人間の新しく生きる方向があるのです。エバのようにエゴイズムの虜になり、自分の欲求を充たすことを追い求め、自分の身を守るために自己中心的に進む、神に背を向ける惨めな道ではない、新しい方向です。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」との神の言葉を信じ、神さまこそが自分の真のご主人であることを認め、その真の主の言葉に聞き従い、わが身を差し出す道です。このマリアの信仰があって、初めて神の子イエス・キリストの誕生というクリスマスの出来事が現実のものとなっていったのです。エバの方向から、マリアの方向へ転ずるところから、クリスマスは始まるのです。私たちが本当にクリスマスを喜び祝い、救い主を受け入れるには、このマリアの方向を歩み出す以外にありません。
聖書を一度も読んだことのない人でも知っている、聖書に出てくる一番有名な女性とは、イエスさまの母「マリア」ではないでしょうか。そして、更にもう一人挙げるとすれば、アダムとイブの「イブ」ではないでしょうか。「マリア」は新約聖書に登場します。一方、「イブ」(イブEveは英語読みですが、聖書の中ではエバEvaと呼んでいますので、以下はエバと書きます)は旧約聖書に登場します。このエバとマリアの二人の女性の姿、それは私たち人間の生きる両極の姿を表しているように思えます。
「エバ」は聖書の創世記2~4章に登場しています。
主なる神さまは、人(アダム)を創造されたそのすぐ後で、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と決意されました。神さまは、本来人は孤独に生きる存在ではなく、愛し合い共に生きる者が必要なのだ、というお考えだったのです。それで…
「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた」のでした。
主なる神さまが、人のふさわしい相手を人のあばら骨から造られたということは、まさにアダムの心のかたわらにエバが生きる者として造られた、ということでしょう。このふたりは、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」(創世記2:24~25)とありますように、実に喜ばしいスタートを切ったはずでした。
しかし聖書の続きを読んでいきますと大変なことになります。神さまはアダムたちに、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と命じていました。しかしエバは蛇の、「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」という誘惑の言葉にそそのかされ、神さまとの約束を破って食べてしまいます。それは、自分たちをお造りくださった主なる神さまの言葉よりも、「神のようになる」という蛇の言葉、罪の誘惑の言葉になびいてしまった姿です。
その上、神さまから「何ということをしたのか」と責任を問われると、アダムもエバも次々と罪を互いになすりつけ合い、責任転嫁をしてしまうのです。そしてその結果、ふたりはエデンの園を追放されることになってしまいました。
これは、単なる神話ではありません。むしろ私たち人間の深層を露わにする物語だと言えます。エバが陥った「神のようになりたい」誘惑など、私たちには関係ないことのように思えますが、果たしてそうでしょうか。私たちの内に潜むエゴイズム、利己主義、つまり、自分の思い通りにやりたい、自分の欲望を充たしたい、自分の利益を追求して生きたいという思いこそ、「神のようになりたい」誘惑の虜になってしまっている私たちの姿ではないでしょうか。これこそ人間の罪の根本的な姿を現わしています。アダムとエバが、神から互いに愛し合って生きるようにと造られ生かされた者であることを忘れ、否定してしまった姿です。自分の身を守るためには責任を転嫁していく自己中心的な姿です。自分こそが人生の主人であることを主張し自分の身を守り抜く道は、本当の主人である神さまなんかいらないとする道と同じです。その道をエバとアダムはどんどん歩んで、神さまから遠ざかってしまったのです。これこそ私たち人間が現に歩んでしまっている、罪の道ではないでしょうか。
ところで、もう一方の聖書の代表的な女性であるマリアの姿はどうなのでしょう。ナザレという田舎町に住むマリアに、突然天使が現れた聖書の場面です。
「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。』マリアは天使に言った。『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。』天使は答えた。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。』
マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』」(ルカ福音書1:28~38)
マリアの前に突然立ち現れた天使の告げた言葉は、まったくもって身震いすることです。右の絵は英国の画家D.G.ロセッティ(1828-82)の作品で、伝統的な「受胎告知」の絵画とは一線を画す、近代的な描き方がなされていますが、天使の言葉におののく姿が良く描かれていると思います。
天使の告げたことは、自分が聖霊の働きによって身ごもるということです。誰が正気でこのことを受け止められるでしょうか。未婚の処女の娘が得体の知らない神の力によって妊娠するなど、理解し難いことです。笑い話にもならないことです。それに、もしもそんなことが仮に起こったとして、結婚前の女のお腹が大きくなったら、あの子はきっと不貞を働いたのだと後指さされ、律法により、姦淫の罪で石打ちの刑に処せられる事態です。
しかし不思議なことに、「そんな馬鹿な!あり得ない!だれがそんなことを信じられるか!」と誰もが言うに違いないことを、わざわざ聖書は、これが神の言葉であり、それが神のご計画であると、大真面目に述べているのです。この世の人たちがあざ笑うことを百も承知の上で、あえて聖書はこの出来事を記しているのです。どうしてなのでしょう。
それにまた、もちろんマリアにも自由がありました。マリアはこの天使の言葉を空耳だったと無視することも、そんなこと信じない!そんなこと嫌よ!と拒絶することも、冗談じゃない!と怒ることだって出来たはずです。
しかしついにマリアは、この天使が重ねて語る言葉に説得され、神の不思議な恵みの言葉と受け止めて、神の言葉にその身を委ねるのです。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
これは、自暴自棄な返事ではありません。ただ流れに身を任せ、なるようになれと無気力になっているのでもありません。「どうして、そのようなことがありえましょうか」と人間的な不可能性を自覚しつつも、人間的には到底計り難いことだとわきまえつつも、けれども、それが、神さまが自分を選び自分に熱心に愛をもって語りかけてくださっている神の言葉だと信じるゆえに、その身を賭けているのです。自分を主なる神さまに、「どうぞお使いください」と差し出す強い意志が確かにあるのです。左のエル・グレコの作品には、マリアのその澄んだ態度がさやかに描かれているのではないでしょうか。
ここに、あのエバにはない人間の新しく生きる方向があるのです。エバのようにエゴイズムの虜になり、自分の欲求を充たすことを追い求め、自分の身を守るために自己中心的に進む、神に背を向ける惨めな道ではない、新しい方向です。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」との神の言葉を信じ、神さまこそが自分の真のご主人であることを認め、その真の主の言葉に聞き従い、わが身を差し出す道です。このマリアの信仰があって、初めて神の子イエス・キリストの誕生というクリスマスの出来事が現実のものとなっていったのです。エバの方向から、マリアの方向へ転ずるところから、クリスマスは始まるのです。私たちが本当にクリスマスを喜び祝い、救い主を受け入れるには、このマリアの方向を歩み出す以外にありません。