日本キリスト教団 茨木教会

ともしび 2019年9月1日 振起日号

「スタンド・バイ・ミー & スタンド・バイ・ミー」

「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべての
ものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」ローマの信徒への手紙8:31-32

『スタンド・バイ・ミー』という映画がありました(1986 年公開)。12歳の多感な四人の少年の冒険の旅の話です。同名の主題歌が大ヒットしました。ベン・E・キングの作品です。その映画での訳詞をご紹介します。

「夜の闇があたりを包み、月明かりしか見えなくても僕は怖くない、僕は怖くない君がそばにいてくれるなら友よ、友よ、いつもそばにいておくれいつまでも 僕のそばに見上げる空が落ちてしまい、山が崩れ、海が沈んでも、僕は泣かない、涙なんか流さない君がそばにいてくれるなら友よ、友よ、いつもそばにいておくれいつまでも 僕のそばに」

「そばにいておくれ、いつまでも僕のそばに」という部分が、「stand by me」と何度も繰り返し歌われているところです。「僕のそばにいて!僕の味方でいて!」とは、私たちの胸にとても響く言葉ではないでしょうか。
 実はこの歌には本歌がありました。この曲がヒットする5~60年前になりますが、同名の『Stand by Me』という黒人聖歌がチャールズ・ティンドレイ牧師によって作詞作曲(1905 年)され、黒人教会で歌われ、今も歌われています(YouTube で聞くことができます)。これがいわゆるゴスペルソングの先駆けになったのです。ちなみに、公民権運動の中でよく歌われた「勝利を我等に(We Shall Overcome)」の原曲も彼の作品です。
ティンドレイ作『Stand by Me』の歌詞もご紹介しましょう。

「この世の嵐が吹きすさぶ時、そばにいてほしい(stand by me stand by me) 荒海にもまれる船のように、私が世界に突き上げられたら、風と水とを支配するあなたよ、そばにいてほしい

試練のただ中で、そばにいてほしい地獄の軍勢に襲われて、私が力尽きそうになる時に、敗北を知らぬあなたよ、そばにいてほしい

過ちと失敗のただ中で、そばにいてほしい精一杯のことをしながら、友人に誤解されても、私のすべてを知るあなたに、そばにいてほしい

迫害のただ中で、そばにいてほしい居並ぶ敵に、我が道を封じられた時、
パウロとシラスを救ったあなたにこそ、そばにいてほしい

私が年老いて弱った時、そばにいてほしい命が重荷となり、凍るように冷たいヨルダン川に私が近づいたなら、
イエスよ、谷間の百合よ、そばにいてほしい
    (翻訳 ウェルズ恵子)

 アメリカ合衆国で奴隷制度が廃止されたのは 1865 年のことですが、1960 年代の公民権運動に至るまでは、黒人に対する人種差別の受難の歴史は依然として続いていました。1851 年生まれのティンドレイは、苦学して読み書きを習い、その後メソジスト教会の用務員として働きながら通信教育で牧師の資格を得、教会に仕えるようになりました。奴隷制度の中に生まれ落ち、そして奴隷解放後のなお厳しい現実を知り抜いた上で、主イエスによる希望を歌にしていったのでした。そうしたことを背景に改めて歌詞を読み直すと、この歌が黒人教会の中で愛され歌い継がれてきた理由が深く伝わってきます。「この世の嵐が吹きすさぶ時、そばにいてほしい!試練のただ中で、そば Charles Albert Tindley 1851-1933年にいてほしい!過ちと失敗のただ中で、そばにいてほしい!迫害のただ中で、そばにいてほしい!私が年老いて弱った時、そばにいてほしい!」と、まさに主イエスへの激しい祈りの歌です。そして、確かに主イエスがそばにいてくださると信じられたからこそ、希望を持ってこの讃美歌は歌い継がれてきたのでしょう。

 米文学者ウェルズ恵子氏は、『黒人霊歌の現代-ゴスペルソングのはじまり』という論文で、stand by me を、「私は『そばにいてほしい』と訳したが、この訳は英語の意図を十分に伝えていない。原詩は、寄り添うのでも抱きしめるのでもなく、『立って行動の準備ができている状態でそばにいてほしい』と言っているのだ。敵対する社会や人生に立ち向かう姿勢と緊張感とが「スタンド・バイ・ミー」というフレーズにはある」と解説しています。
 私たちは試練に遭った時、苦境に立たされた時、酷い裏切りにあった時、取り返しのつかない罪を犯してしまった時、悪魔的な力に翻弄された時、死が迫ってくる時、深刻な孤独に陥ります。そのような時、ただ寄り添い抱きしめ、よしよしと頭を撫でてもらうだけでは、一時の気晴らしにはなったとしても、孤独は本当には癒やされない。本当の力に、本当の救いにはならない。そうではないでしょうか。
 それでは何が本当の癒しになり、力に、救いになるのでしょうか。それは、私たちの深刻な孤独を本当に知り抜いてくださる方がいることです。そして、試練に、苦境に、裏切りに、罪に、悪魔的な力に、最後の敵である死に、立ち向かって行動を起こし、私たちの味方となり体を張って守り抜いてくださる方がいることです。
 主イエスこそ、あの十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたほど、神と人から見捨てられるという深刻な孤独を味わわれた方です、私たちに代わって、私たちのために。だからこそ、私たちの内奥の孤独までご存じなのです。そして、主イエスこそ、試練に、苦境に、裏切りに、罪に、悪魔的な力に、最後の敵である死に、十字架を負って立ち向かって行動され、そしてそれらに勝利し、復活されました。それは、私たちをどこまでも見捨てず愛し、孤独から救い出し、私たちをご自分の命の中へと招き入れるためだったのです。
 地獄の軍勢に襲われて力尽きそうになる時にも、精一杯のことをしながらも友人に誤解される時にも、居並ぶ敵に我が道を封じられた時にも、命が重荷となり凍るように冷たい死に近づく時にも、十字架と復活の主イエスが、私たちの究極的な味方となってくださる、それがこの黒人聖歌が歌っていることであり、そして聖書
自身が語ってやまない福音です。

苦難のはざまから主を呼び求めると主は答えてわたしを解き放たれた。
主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。
人間がわたしに何をなしえよう。
    (詩118編5~6節)