日本キリスト教団 茨木教会

ともしび 2019年4月21日 イースター号

「主イエスが我が家の食卓に」

イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取ってみんなの前で食べられた。
(ルカ福音書24:36~43)

「ヘィ、いらっしゃい!」
「あのォー…焼き魚…」
「焼き魚定食ですか?了解!焼き魚定一丁!!」
 ……
「ヘィ焼き魚定、お待ち!」
「…アッ、どーも…」

 大学入学で上京したての頃の 私は、それまでずっと津軽弁世界で生活していたので、東京の言葉がまぶしくてなかなか慣れず、津軽訛りが気になってしばらく人前で言葉を発することをためらっていました。ですが夕暮れ時、それでなくても独り暮らしの淋しい部屋で黙々とパンを食らうのはあまりにわびしいので、少しでも人気と温もりのある大衆食堂ののれんをよくくぐったものでした。そうやって、油や煙で汚れたテレビの画面をときどき呆けた顔で見上げながら、黙々と食べている時に、もしもイエスさまが、「やあ!」と入って来て、「私だよ、イエスだよ、まだ分からないかな」と言いながら、私の向かい側にどかっと腰を下ろし、「私にも焼き魚ください」と、同じく焼き魚定を注文し、目の前でムシャムシャ食べ出したら…どーしましょ!?!?

 イエスさまが十字架刑で 殺され、墓に葬られてから三日目の日曜早朝、「イエスさまが復活された」とのニュースは、部屋にこもっていた弟子たちのところにすぐ届きました。第一報は墓参りにいったはずの婦人たちから、「墓が空っぽになっていました!『あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ』と白い衣の方が言われました!」と。続いてペトロも婦人たちの言葉を確かめに墓へ。すると不思議にも確かに墓は空っぽだった!と。そして第三報は、「エマオへ行く道で一緒に歩き色々聖書の話をしてくれた人と宿で食事をした、それがまさにイエスさまだった!」と二人の弟子たちから。次々と速報が届く中、一同が興奮のるつぼにいた時です。その当のイエスさまが彼らの真ん中にお立ちになられ、「あなたがたに平和があるように」と言われたのでした。度肝抜くとはこのことでしょう。弟子たちの驚き恐れる様子は察して余りあります。
「ギャー幽霊ー!?!?」

 まさに顔の引きつった弟子たちに対し、イエスさまはもう一歩近づき言われました。
「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたが たに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
 ……………と言われたところで、そうそう一度引きつった顔はすぐには戻りません。ビックリするやら、不思議やら、嬉しいやら、恐ろしいやら、…いろんな感情がない混ぜになってなんともいえぬ興奮状態が続く中、そこで、そうです!例の、
“焼き魚一丁!!”

 イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取ってみんなの前で食べられた。

 イエスさまの弟子の中にはガリラヤ湖の漁師出身者が何人もいました。それで魚好きが多く、きっと自分の家から魚の干物を沢山持ってきていて、なにかというとそれを焼いて食べていたのでしょう。この聖書箇所は、魚好きの我々日本人になんとも親近感の沸くシーンではないでしょうか。あのイエスさまが、です!「ほら、わたしはちゃんとあなたたちの前に復活し、こうして確かに現われたでしょう」と証明するために、焼き 魚を手ずからムシャムシャほおばっていたんです!
 いやこれは、イエスさまが、単に私は亡霊ではなく「復活して生きてるのだ」という証拠を示されただけではないと思うのです。死に打ち勝たれたイエスさまは、お客様用のきれいなテーブルクロスの掛かった応接間に来られるのではなく、それこそ私たちの生活臭のプンプンする台所兼居間にまで入って来られ、海苔やお豆腐や、納豆や、漬物や、サバやサンマが並ぶ我が家の食卓にどかっと座られ、「わたしもあなたがたと一緒に食事を楽しもう!」と言わんばかりの姿を現されたのではないでしょうか。イエスさまが墓からよみがえられたとは、まさにそのように、聖霊の働きによって、私たちの日常の生活の真っ只中にまでおいでくださり、私たちと生活を共にされるお方である!と、この出来事は示しているのではないでしょうか。
 そうであれば私たちも、よそ行きの格好つけた信仰生活ではなく、生身のありのままの姿をさらけ出しつつ主イエスと生活を共にしていく、そういう信仰生活でありたいのです。
『キリストは わが家の主
食卓の 見えざる賓客
あらゆる会話の 沈黙せる傾聴者』