日本キリスト教団 茨木教会

ともしび 2018年11月25日 クリスマス号

「あなたのこころの扉をノックする方」

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
(ルカ福音書2:1-7)

見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。(ヨハネ黙示録3:20)
 今年もクリスマスの季節がやって来ました。めぐみ幼稚園の子どもたちのクリスマス劇を毎年見る度に、園長の私はいつも心があったかくなり、眼をウルウルさせてしまいます。
♪「トントントン、やどやさん
どうかひとばんとめてください」
「どこのおへやもいっぱいですよ」
「こまったこまった、どうしましょう」
「むこうのやどやにいってください」

「トントントン、やどやさん、どうかひとばんとめてください」
「どこのおへやもいっぱいですよ」
「こまったこまった、どうしましょう」
「うまごやならば、あいてます。
さあさあどうぞ、おはいりください」♪

 これは劇中の幼い子どもたちの歌ですが、上記のルカ福音書にあるように、ヨセフは婚約者のマリアを連れ、ローマ帝国が税金をガッチリ取ろうと行った住民登録のため、ナザレ村からベツレヘムの町まで旅したのでした。マリアはすでに臨月を迎えていたので、100㎞以上の長旅は実に危険なものだったことでしょう。そしてやっと辿り着いた先で、宿探しをしている場面がこの歌です。
 なんとも愛らしい歌で、特に聞く度に笑みがこぼれてしまうのは、「こまったこまった、どうしましょう」と腕を組み、首をかしげて歌っている幼子の姿です。この歌に登場する宿屋さんはとても心優しく、「うまごやならば、あいてます。さあさあどうぞ、おはいりください」と歌った後で、「寒かったでしょう。狭いけれど、外よりはいいでしょう。さあどうぞ、お入りください」と二人を温かく迎えてあげるのです。

 しかし、聖書そのものが伝えていることは、実はもっと寒々としています。
 「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」
 そうです、宿屋には彼らの泊まる場所がなかった!彼らには居場所がなかったのです。住民登録のため宿屋は満杯だったのか。また今にも生まれそうなマリアのお腹を見て、「こんな所で赤ん坊なんか産んでもらっちゃ大迷惑だ!」と、扉をバタンと閉じられたのかもしれません。心優しい人々は何処にもいなかったのです。それで場末の家畜の糞尿の臭いがプンプンする、言ってみれば淋しい公園の公衆便所の片隅のような場所で、イエスさまはお生まれになったのでしょう。
 明るくあったかい清潔な場所で心優しい人たちに見守られての出産、とは真逆の、おそらく灯りも無く寒々としている汚辱(おじょく)にまみれた場所で、旅の疲れも癒えぬ二人だけの陣痛の夜がそこにあったのです。  マリアは天使から、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。…あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。…生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1:28)、と受胎の知らせを受けていました。その神の子と呼ばれる子が、まさかこんなみじめな中で生まれるなどと、マリアは思いもよらなかったことでしょう。
 聖書の中にこんなみ言葉があります。
 「言(キリスト)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」(ヨハネ1:11)
 まさに、イエスさまが来られても、押し売りか怪しげな勧誘が来た時のように、みんな扉をバタンと締めて受けいれようとはしなかった、ということなのです。
天使は、野宿している羊飼いたちに現れ、こう告げました。
 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
イエスさまの誕生は民全体に与えられる大きな喜びだったのです。あなたがたのために救い主がお生まれになったということだったのですが、ほとんどの人が喜んで迎えることができなかったのです。それでイエスさまは、飼い葉桶、家畜の餌箱にポツンと置かれたのです。これが、世界で初めのクリスマスの夜だったのです。

さて、それならば、今年2018年のクリスマスはどうでしょう。
今年もUSJ(ユニバーサルスタジオジャパン)の世界一の光のツリーは58万個(昨年より4万個増)の電飾を輝かせているようです。そのユニバーサル・ワンダー・クリスマスというショーには過去10年間で300万人の人々が訪れ楽しんだようです。その一夜の夢のような時間を過ごした人に、「メリークリスマス!主イエス・キリストがあなたの救い主としてお生まれくださいました!イエスさまをよろこび迎えましょう!」と天使が告げ知らせたら、一体何人の人が心を開いてイエスさまを迎えてくれるでしょう。
いや、これを読んでくださっているあなたはどうでしょう。またあなたの家族は?あなたのお友達は?救い主イエスを心から歓迎されるでしょうか。すでにクリスチャンのあなたも、初めからイエスさまを心の内に喜んで迎えることができたでしょうか。・・・決してそうではなかったのではないでしょうか。初めはやはり、こころの扉を簡単には開けなかったのではないでしょうか。

でも、一体どうしてなのでしょう、私たちが救い主であるイエスさまをなかなか心の中に受けいれようとしないのは?
ひとつは、「イエス」というお方がよく分からないからでしょう。知らない方をそう簡単に心の中に迎えるわけにはいきません。でも、分からないならば、もしそこに真理があるかもしれないと少しでも思うならば、恐る恐るでも分け入ってみればいいわけです。道を求めてみればいいわけです。そんなに大きな喜びがあるというならば、それが本当か、羊飼いのように訪ねてみればいいわけです。
ある方が教会の集いに参加された時に、「皆さんのように信じ信頼できる方がいるということはうらやましいです」と言われていました。ですが、だからといってその後、自分から積極的に道を求められたかというと、そうではありませんでした。躊躇(ちゅうちょ)してしまったのでしょう。「うらやましい」と言ってはみたものの、自分が一歩踏み出してみるほど魅力的に思えなかったのかもしれません。ですが、それと共に、その心の奥底に、もっと深い理由があるように思うのです。その理由とは、私たちみんなの内にある「エゴイズム」というものではないか…。
私たちは、「私」という城の主人です。王様です。この世の中では私たちは、自分の思い通りにはなかなか生きられません。ですが、「私」という城の中だけは自分が王様でいられる。自分が王様でありたい。そしてその城の中に、他の者が入ってもらっては困る。心の中だけは誰にも邪魔されたくはない。そういう堅い城門を持つ城の中に私たちは住んでいるのだと思います。しかし隙あらば、「私」という王様は、自分の思い通りにできそうな者には戦いを仕掛け、自分に服従させようとします。そしてそれが様々な人間関係に及ぶと、夫婦関係も親子関係も友人関係も、いびつになっていきます。それは、相手もまた「私」という王様だからです。そこで争いが生じ、その関係はガタガタに壊れていきます。愛の関係は、お互いのエゴイズムによって絶えず脅かされているのです。そしてそれによって傷つくと、今度はまたその自分の城にこもってしまう「私」がいる。そこに私たちの孤独があります。
イエスさまを救い主として迎えるとは、その「私」という城の内に喜んで迎え入れることであり、私が、その城の王であることを辞め、イエスさまをご主人として王様として迎え入れ、一緒に住む、ということに他なりません。だから拒絶するのです、抵抗するのです。防衛本能が働くのです。葛藤があるのです。そして扉に閂(かんぬき)をかけるのです。

ではイエスさまは、私たちが扉をバタンと閉め、容易に受けいれようとしないことをご存じなかったのでしょうか。神のみ子です、知らないわけがありません。逆です。私たちが頑(かたく)なに「私」の城にこもり扉を閉ざしているが、実はその城の中で傷負い、孤独に陥り、魂の飢え渇きに喘(あえ)いでいることを深く憐れまれ、だからイエスさまはお出でくださったのです。そもそも父なる神は、「人が、独りでいるのはよくない(創世記2:18)。わたしは人を独りで生きられる者として創ったのではない。わたしの愛の中に立ち帰って生きよ!」と、そのために、神はその独り子を世にお遣わしくださったのです。「愛」を知らぬまま、寒々とした城の中で凍え死にそうな魂を何とか救い出そうと、拒絶されることを百も承知の上で、主イエスを送ってくださったのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)とは、そういうことなのです。

今日もイエスさまは、「私」という城の扉をたたいてくださっています。こころの扉をノックしてくださっているのです。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている」と。無理矢理扉をこじ開けてドカドカ入ってくるのではなく、柔和な王として、私たちが内側からこころを開いて迎えてくれるまで、忍耐強く呼びかけてくださっているのです、「わたしだ!あなたを愛している。あなたのことを案じている。あなたを救うために来たのだ。あなたを赦すために来たのだ。あなたは独りではない。わたしはあなたと共にいる。わたしと共に生きよう!わたしと一緒に食事をしよう!」と。


「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」
(ヨハネ黙示録3:20)