日本キリスト教団 茨木教会

ともしび 2018年09月02日 振起日号

「種まく主イエス、種まく私たち」

 「また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。』」マルコ福音書4:26~29
 この絵は、あのフランスの農民画家ミレーの代表的作品、『種まく人』(1850年。101.6×82.6cm)です。画面一杯に描かれたこの農夫の姿は、見る者を強く揺さぶります。彼は大地にしっかり足を踏み出し、骨太の腕を勢いよく振り、大地に種を蒔きつづけます。ここには、不信や虚無や自己嫌悪や自暴自棄や無力感や怠惰な思いは微塵も感じられません。ここには、信頼の熱情とでも言うようなものがみなぎっています。

 ところで、この絵はボストン美術館に所蔵されているものですが、これとほとんど同じ絵が日本の山梨美術館にもあります(次頁)。99.7×80㎝と若干小さいものの、同じく画面一杯に力強く種まく人が描かれています。製作時期はいずれも1850年とされていますが、どうもボストン版の方が先に描かれたようです。どちらがサロン展に出品されたのか諸説あり定かではありませんが、いずれにしてもミレーは、一枚描き上げて、まもなく、またもう一枚も描かずにはおれなかったようなのです。両者を較べてみますと、ボストン版の方は、全体がやや青みがかっていて暗い色調になっていますが、種まく人の赤いシャツと青いズボンがはっきり見えます。一方、山梨版の方は、人物の輪郭はややぼやけています。空の端が黄色に染まって黄昏時か、左やや上の方に、私の目には、鳥が飛んでいるように見えます(種が飛び散っているのかもしれませんが…)。
 画集の二枚の絵を見較べているうちに、私の想像の翼がぐんぐん広がってきました。
 …もしかするとミレーは、朝まだき暗い内から畑に出て働く農夫を描いた後、それだけでは物足らず、いやそれだけではこの農夫を描き切ったことにはならないと思い、もう鳥も巣に帰る夕暮れ時、残光の中、なお種を蒔き働き続ける農夫の姿も描きたかったのではなかろうか。そうだとすると、この農夫は、朝早くから夕闇迫るまで一日中、力強く種をまき続けている、ということになるが…しかし果たしてそんな疲れを知らない農夫などいるのだろうか。むしろあの『晩鐘』の農夫たちのように、疲れ切った中、教会の鐘(アンジェラス)を合図に祈りを捧げる姿の方が実に人間的に思えるが…。だとするとミレーは、おそらく、身近にいる実直に働く農夫の姿を描きつつ、その農夫たちを支え生かす、種まく主イエスの姿をこのカンヴァスの中に塗り込めていったのではないだろうか…。

 主イエスの語られたたとえ話にこんな話があります。
「『よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。』そして、『聞く耳のある者は聞きなさい』と言われた。」マルコ福音書4:3-9

 イエスさまの話を聞いていた群衆の中には、きっと農夫たちもいたことでしょう。そして話を聞きながら、「この種蒔く人はなんて頼りないんだ。大事な種なのに、道端だの石だらけの所だの茨の中だの、とんでもない所に蒔いてしまっている。貴重な種が無駄になっちゃってるじゃないか。なんでこんな話をしてるんだろう。それに、良い土地に落ちた種は30倍、60倍、100倍の大豊作になるなんて言ってるけど、そんなにうまくはいかないものさ。雨が思うように降らなかったり、降りすぎて困ったりとか、種を蒔いた後も色々苦労があるもんだ。100倍なんて大豊作、今まで見たこともない。一体この方は何を言いたくてこんな話をしてるんだろう。」…そんな反応が聞いている人たちに色々起こっていたと思います。
 このたとえ話の筋は小さな子でも分かる話だと言えます。しかしそれなら、これは何を伝えようとしているかとなると、なかなか謎めいていて、分かりやすい話とは言い難いと思います。一体主イエスは私たちに何を示そうとされているのか。

 ミレー自身はこの『種まく人』を、何を思いながら描いたのでしょう。ある解説にこんなことが書いてありました。「ミレーは、小学校を終えてから村の司祭館でラテン語を学び、特に聖書は終生の愛読書となった。従って彼は画学生の修行に出る前に、ラテン語に通じ、家庭の宗教書は読み尽くすという、ほとんど神学生のような一風変わった教養を身につけたことになる」(井出洋一郎)。
 そうだとすると、彼はこれを描きながら、当然、主イエスの種蒔きのたとえ話が念頭にあったことでしょう。しかし、そうであれば、彼にとってたとえ話に出てくる道端や石地や茨のことはどうなってしまったのか。  きっとおそらく、もう道端や石地や茨のことなどお構いなしに、とにかく種を大胆に蒔き続けるこの農夫を描く、それで良い、そう思ったのではないでしょうか。貴重な種です。ですが、鳥に喰われようが、すぐ枯れてしまおうが、窒息しようが、無駄になることを知りつつ、しかし無駄になることも厭わず、とにかく必ず豊かな実りがきっとある、30倍、60倍、100倍の驚くべき大豊作がきっとある、そのことだけを信じ信頼して、蒔く。倦まず弛まず、蒔く。徒労や無駄骨だと思える時がたとえあったとしても、蒔き続ける。それが、神の国の福音の種を蒔き続ける神の農夫、主イエスだ!-まるでそう言い放つように描いていったのではないでしょうか。

 主イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と、神の国の福音を宣べ伝える旅を続けてきました。主イエスが育ったガリラヤ地方の町々村々を巡り、また時にはユダヤ人が立ち入らない異邦人の地にも赴き、最後には都エルサレムにまで行き、神の国の福音(=神さまの支配の中に入れられる喜びの知らせ)を宣べ伝え、悔い改め(=神に立ち帰ること)を促してきました。しかしご存じの通り、主イエスは、捕らえられ、侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられて殺されてしまいます。まるであの種の命運のごとく、喰われ、枯れ果て、拘束され、潰ついえてしまったのです。
 しかし全能の神は、墓に葬られた主イエスを復活させられたのです。主イエスがかつて、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)と言われていたことが実現したのです。そして悔い改めて復活の主イエス・キリストを信じる者は、死によっても決して滅ぼされない、真に豊かな永遠の命の望みを知る者となったのです。その喜びの実が、エルサレム、ユダヤ、サマリア、小アジア、ヨーロッパまで豊かに結んでいったのです。

 ところで、その主イエスの種蒔きの仕事は、今はどうなってしまったのでしょう。
 ある本にこのようなことが書いてありました。
「私たちはまた、人間の内に住み給うキリストが、今日も伝道を続けておられることを知らねばならぬ。…イエス・キリストはパウロの内に住んでくださり(ガラテヤ2:20)、御自身、地上で設けられていた限界ゆえに完成されなかった仕事を、完成しようとされた。そしてパウロの手と足、その舌と頭脳、その心情を駆使しつつ、世界伝道のために出てゆかれたのである。それ故二千年の教会の伝道の歴史は、イエス・キリスト自身の伝道の歴史なのである。」(『地の果てまで』永井修)

 パウロとは主イエス・キリストの使徒で、福音をヨーロッパまで運び豊かに実らせる働きをした人です。ですがこの本が言っていることは、実は、主イエス・キリストがそのパウロの内に住み込んで、彼の手と足、舌と頭脳、心情を用いて、福音の種蒔き、伝道の働きをしておられたのだ、というのです。  この「パウロ」というところに、「茨木教会」と入れることも可能であり、また信仰に生きる私たち自身の名前を入れることも許されるでしょう。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)から、種まく主イエスが私たちの内に住み込んでくださり、私たちをも種まく人として用いてくださっているということです。これは驚くべきことですし、畏れ多いことです。しかし、そうは言うものの、果たして、30 倍、60 倍、100 倍の豊かな実りの奇跡など一体どこにあるのでしょう。そんな奇跡など遠い昔のお話ではないでしょうか。

 いえいえ、違います。私たちの教会、私たち自身に起こっていることを、改めて刮目し見ていくと……つくづく不思議だと思います。絶望していた者が、立ち上がって歩き出しました。死を間近に苦しみあえぐ者が、感謝の祈りをささげていました。説教の言葉に打たれ、罪を知るようになり、悔い改めて、洗礼を受ける者が現れました。心閉ざしていた若者が、笑顔で話すようになりました。家庭内離婚状態であった者が、何とか相手に届く言葉がないかしきりに考えるようになりました。体に弱さを覚える老人たちが、今日も明るい顔で讃美歌を歌っています。仕事で疲れ切った壮年が、家で寝ていれば肉体は休めるのに、這うような思いで礼拝に集ってきます。特別興味を引く面白いプログラムがある訳でもないのに、中高生が今朝もやってきます。……不思議ではないでしょうか。驚くべきこと、信じ難いことが、実は教会の中で日々起こっているのではないでしょうか。それらは、私たちの予測や憶測や計算をはるかに超えたところで、まさに奇跡的に起こっているのではないでしょうか。いや、事実ここそこに奇跡が起こっているのです。
「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」
 種まく私たちは、どうしてそうなるのか知りません。けれど、「ひとりでに実を結ばせる」神の力に日々驚かされます。この驚きこそが信頼を生みます。その信頼が、豊かな収穫を待ち望む希望と忍耐を生み、その希望と忍耐が、更に福音の種を粘り強く蒔くエネルギーとなってくるのです。
 さあ、大地に足をしっかり踏み出し、腕を勢いよく振り、喜びの種を蒔き続けていきましょう。