日本キリスト教団 茨木教会

ともしび 2018年04月01日 イースター号

「キリストの復活-生き生きとした希望に生きる」

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」Ⅰペトロ1:3~4

「いいかい、へさきに立って遠くを見ているあの男…、君らのように目に希望が!後ろのいかだで頬杖をついている男…、僕と同じで将来に不安を抱き続け、いつも臆病な人生を生きてきた男だ。へさきに立つ男はくじけず、あきらめるってことを知らない。どこからそんな勇気が出ると思う?大きな愛があるからだ」

 これは、『シティ オブ ジョイ』という映画の台詞の一節です。手術の失敗で自信喪失に陥った米国の医師が、傷心の思いでインド旅行をしている途上、思わぬことから困難を極めるスラム街の診療所を助け、そこで自分自身の魂の癒しも経験していく、といったドラマです。主人公であるその医師が、瀕死の父親を看病する子供たちに、診療所に掲げてあった一枚のこの絵を指しながら話しかけていたのでした。

 この絵画はテオドール・ジェリコ-の『メデューズ号の筏(いかだ)』(1819年)という作品で、実際に起こった海難事故をもとにしたものだそうです。時は1816年の夏、フランス海軍のメデューズ号には総勢400名が乗船していましたが、西アフリカ海岸のモーリタニア(セネガル)付近で座礁してしまいます。救命ボートで250名は脱出できたものの、残り150名は船に取り残されてしまいます。彼らは破損した船の用材で巨大な筏を作り、折り重なるように乗り込むのですが、食料はたった一日で尽き果て、水もなく、極限状態に陥ります。13日間漂流するのですが、その間、地獄のようなサバイバルで、溺死、喧嘩による殺戮、病死、自殺、発狂、餓死が続出し、発見時の生存者はたった15名、最終的には10名しか助からなかったそうです。なんと人肉を食し飢えをしのいだとのこと。
 ジェリコ-はこの事件に強く惹(ひ)きつけられ、生存者への聞き取りをはじめ様々な取材を行い、習作を重ね、制作には1年余を費やしたといいます。この約5m×7mの壮大な作品は現在ルーブル美術館に展示されていますが、数年前に私もこの絵を間近で見ました!とはいっても、パリではなく、鳴門海峡のすぐ側にあります大塚美術館の陶板名画(複製画)でですが、原寸大のその迫力には本当に圧倒されました!人物は等身大で描かれ、手前の人物は更に大きく描かれています。なお、これらの人物像の中には、彼が会った生存者3名もモデルになっているそうです。リアルに描くために病院で死体や瀕死者の姿を幾枚もスケッチし、まさに鬼気迫る情念によってこの絵を完成させたのでした。この惨劇、襲い来る荒波に翻弄される筏、折り重なる死体、はるか彼方に見出した救助の船に激しく手を振る男たち、死と生、絶望と希望の織りなすドラマは、見る者を絵の中に引きずり込み、激しく揺さぶります。

 ところで、私たち人間には、誰であっても希望が必要です。希望がなければ、私たちは生きる意味を見失います。生き甲斐を失います。望みがなくなれば、生きていても、生物的には生きていても死んだような状態-生ける屍となって、虚無的になります。冒頭に掲げた映画の主人公の言葉-「後ろのいかだで頬杖をついている男…、僕と同じで将来に不安を抱き続け、いつも臆病な人生を生きてきた男」-彼はまさにそうでしょう。死の現実によって希望が打ち砕かれ、虚無の闇の中に吸い込まれていっているようです。

 しかし一方この絵には、荒れ狂う波間にありながら、筏の「へさきに立って遠くを見ているあの男」がいます。「へさきに立つ男はくじけず、あきらめるってことを知らない」-彼は、同じく悲惨な死の現実に直面しながらも、生き生きとした希望をいだき、くじけず、手を振り続けています。死の現実によって打ち砕かれてしまう「希望」と、同じ死の現実にありながらも壊れない「希望」-その違いは一体何処から出てくるのでしょうか。

 私たちが日常的に用いる「希望」とは、「ああしたい、こうしたい、こうなりたい」という願い、期待、夢、あこがれ、そういったことが中身なのではないでしょうか。それらは私たちの内側から出てくる心理的欲求や願望と言えるでしょう。自分の中から出てくる希望は、それより大きな力にぶつかれば簡単に潰されてしまいます。

 一方、聖書に出てくる「希望」の特色は、旧約聖書・新約聖書に一貫していることですが、すべて主なる神さまに結びつけられている言葉だ、ということです。旧約には、「主よ、あなたはわたしの希望」(詩71:5)とか「神にのみ、わたしは希望をおいている」(詩62:6)とあり、また「主を待ち望む」という言い方は詩編に頻出(ひんしゅつ)しています。しかも「希望」「待望する」という言葉は、主なる神さまとの人格的な信頼関係を表す言葉で、「主よ、あなたを待ち望みます」とは、「主よ、あなたに信頼します」「主よ、あなたが救ってくださるその約束を信頼し、待ち望みます」という信仰の告白を意味しています。

 新約聖書ではそのことがもっとはっきりしてきます。主イエス・キリスト、このお方が希望の土台・根拠であり、希望の対象であり、希望の中心となってきます。冒頭に掲げたペテロの手紙のみ言葉もそのことを明確に示しています。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」てくださると。これは、「キリストの復活のおかげで、私たちキリスト者は生き生きとした希望へと向かって新しく生きることができるようになった」ということです。キリストの復活こそが、私たちを新たに生まれさせ生ける望みをいだかせる根拠だと言っているのです。

 たとえ私たちにどんなに暗い夜があっても、たとえ私たちにどんなに重い苦しみがあっても、たとえ私たちにどんなに深い悲しみがあっても、たとえ私たちにどんなに辛い別れがあっても、たとえ私たちにどんなに醜い罪があったとしても……、暗い罪と死の闇は退けられ、キリストの復活の朝が必ず訪れ、私たちを新しく生かし希望を与えてくださる。キリストの復活による希望の朝の来ない夜はない。それが、聖書が全力で私たちに証言していることなのです。ですから、キリストの復活を信じる者こそ、あの筏のへさきで手を振り続ける者たちなのです。

 しかし、キリストの復活を信じることなど、21世紀の私たちに本当に可能なのでしょうか。いえいえ、頬杖をつき、キリストの復活を疑い背を向ける人は、二千年前から既にいました。その人たちに対し、聖書はこう語っています。

 「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。

しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(Ⅰコリント15:14-20)

 こんな方がおられました。奥様が教会に導かれ、やがて洗礼を受けられ、キリスト者になられました。夫であるその方は、妻がキリストの復活をまともに信じていることをいぶかり、そんなことなどあるものかと時に議論をふっかけていたそうです。しかし、ご自分が窮地に陥ったことをきっかけに、一歩、二歩と教会の礼拝に足を踏み入れるようになりました。そして信仰を求め、キリストを信じる心が生まれてきました。そんなある日、「あなたはキリストの復活など信じられるかと奥様に言われていたそうですが…」と恐る恐る尋ねてみると、意外な言葉が返ってきました。「礼拝に出ていて、聖書の言葉を聞いているうちに、キリストの復活を信じないわけにはいかなくなりました」と。その言葉は私の胸に深く留まりました。どうして礼拝に集うようになり、讃美歌を歌い、祈りをささげ、聖書のみ言葉、説教を聞いていくうちに、キリストの復活を信じられるように変えられてきたのか。おそらくそれは、礼拝で読まれ語られる聖書の紙の言葉が、その人の心に、神の言葉、神の声、生けるキリストの声として聞こえるようになったからなのでしょう。いえ、もっと丁寧に言う必要があるでしょう。おそらく、礼拝堂にぽつんと居る自分の心に向かって語りかける、生けるキリストの存在を知るようになったからでしょう。今のこの自分の罪を赦し、この自分を慰め、この自分を深く愛してくださる方が確かにおられる、そう実感できたからなのでしょう。主イエス・キリストとは、二千年前、十字架刑に処され、墓に葬られた過去の人ではなく、今の自分の窮状を知ってくださり、人格的に深く関わり、自分の罪を明らかにし、その罪を贖い、赦し、「新しく生きよ」と愛し励まし導いてくださる生ける神であると。
 愛を知ったのです。復活された生けるキリストの大きな愛を知ったのです。ですから、復活のキリストの愛こそが、罪と死の現実に取り囲まれあえぎ生きる私たちを必ず救い出す救助船、わたしたちを新たに生まれさせ、生ける望みをいだかせる根拠なのです。だから、くじけない。だから、あきらめない。なお、勇気をもって生きられるのです。